神と罪のカルマ オープニングzero【β】
「どうしたの?」
暖かい日が射し込むリビング。
折り畳み式のテーブルを避け、二人して横になれるスペースを作っている仁樹に朋音が問いかけてきた。
「何がだ?」
「急にお昼寝しようって言ったこと」
彼が昼寝に誘うことが彼女にとって珍しいことなのだろうか。……いや、実際には本当に珍しいことであった。
一緒に過ごす時間が少ない二人。そのため、休みが重なった日は殆ど出掛けることの方が多い。
そんな貴重な一日を仁樹は昼寝に使おうとしている。
「それに、いつも私が勝手に寝て、仁樹君がそれに続いて寝るでしょ?」
「まァな……」
朋音は何処でも寝れる。学生の頃に、体育館倉庫の跳び箱の中で寝ていたことは、友人の間では懐かしき思い出話だ。いまとなってはそんな奇想天外の場所で彼女は寝たりはしないが、風呂場で寝ていた彼女を見て、仁樹が焦る思いをしたのはまだ二人の記憶に新しい。
「たまにはよ……、家でのんびりダラけようぜ」
「……うん」
仁樹の答えに、朋音は頷いた。持ってきていた薄手の毛布を広げ、自分と仁樹の枕を二つ置いて片方に頭を預ける。
こういう時は男が腕枕をした方がカッコいい、と海琉が以前言っていたことを思い出す仁樹であったが、朋音は「腕が痛そう」と言って枕を使用するのだ。
「……なんだコレ?」
自分も横になろう、と仁樹も自分の枕の位置を確かめながら足を伸ばした時。何か堅いものがつま先に当たった。
「あー。それね、仕事場の先輩に借りた本なの。人気だからって」
「『狂い人(クレイジーヒューマン)』、ねェ……」
処女作にしての売り上げ書籍第三位を記録した若手作家。
ペンネームは 新屋 万(しんやよろず)。
作品名、『狂い人(クレイジーヒューマン)』。
とある青年が不幸により、永遠の愛を誓った恋人を失ってしまう。
そのあまりにもの深い悲しみに落ちていってしまった彼は、世界に絶望し、そんな運命を作り上げた世界を憎み、恨んだ。
家族の、親友の声も聞かず自暴自棄になる青年。そんな彼の前に、その想いに答えたかのように――――、
「世界を恨むということは、何かを失っても構わないということだ」
『死神』が現れた。
「それでも、会いたい」
世界の理から外れても、愛おしい恋人に会いたい。
「ならば……」
死神は恋人を生き返させる条件に、青年にいくつかの命令を出した。
それは道徳も、人としての誇りも何もない。生きる者として、道をはずれし非道の数々の命令を、だ。
人を一人、生き返らせることは多くの犠牲を必要とする。だが、全ては恋人のため。青年は犯罪を繰り返し、罪悪感などとうの果てに枯れていった。
目的に近づくたびに、理性は無くなり、ただその身に『罪』を重ねていく。
狂いに狂っていく、その姿―――――。
「貴方は、誰?」
拒絶された。
罪を重ねていき、ついに念願の恋人が生き返るも、青年のことを拒絶したのだ。
『女が生き返れば、お前への感情はいらないだろ』
結果、恋人は自分のために罪を犯した青年を軽蔑し、彼の前から姿を消すことなる。
消えた彼女を崩れていく心で探していくが、叶わず。ついに青年は警察に捕まってしまう。
青年は重過ぎる罪により刑務所に連れていかれ、日に日に壊れていった。
そして、最後にはまともに話が聞けない状態となり、狂い、狂い……死んでいく。
その姿を、死神は歪んだ笑みで見つめる――――。
彼の恋人を抱きしめて―――――。
「凄く悲しいお話なの……」
表紙や帯に書かれているあらすじを読む仁樹の傍で、彼が手に持つ本を見つめて朋音は呟く。
「罪を犯してまで会いたかった人に、裏切られて、嫌われて……」
「……」
「みんなは物語が面白いって言っていたけど……、それはなんだか、男性の想いを笑ってるみたいで……」
つらい────……。
この物語の語り部である作者も、ひねくれた書き方をしていると、ニュースなどで話題になっていたことを思い出す。
主人公の青年を酷く、汚く、罵った表現で読者を楽しませる。
それはまるで、青年を下らない人間だと言うかのように───。
「くだらねェ」
「え……?」
「所詮人間はそんなもんだって言ってるようで腹が立つ」
「……怒ってる?」
「本にイラついている」
この本では、主人公を『暴走した狂愛』として表しているが、仁樹にはそうと思えなかった。
一途で、『揺ぎ無き愛』――――。
「それを馬鹿にすることを書くんじゃねェよ」
「仁樹君……」
「……あー、止めだ止めだ。折角の昼寝だ」
本を適当な場所に置き、朋音のそばに再び横になる。長い足を限界まで伸ばし、全身の力を抜いていく。
「明日、返してくるつもりだよ」
「そうか。なんか言われたら俺に電話してこい」
「ふふ。大丈夫だよ」
本にも人の好みがある。相手が余り好きそうでなかった場合、無理矢理押し付けるのはマナー違反だ。
親しき中にも礼儀あり。忘れてはならない。
「今日、博士の家に行ったんだよね。博士はお元気だった?」
「朋音はしばらくあってねェもんな。相変わらずの髭っ面だったぜ。あと、傘貰った」
「そっか、良かったね。……ねぇ、仁樹君」
「どうした?」
「何かあったの?」
一瞬、身体が止まった。
「……どうしてだ?」
「なんとなく」
仁樹を見つめる、彼女の瞳。
穢れなき、ブラウンの瞳は逸らすことも揺らすこともなく。ただ仁樹を、仁樹の目を捕らえていた。
「……適わなねェな」
「仁樹君のことには敏感ですから」
それは……、仁樹だけではないのであろう。彼女の親友や自分の親友、彼女の家族や自分の家族。もしかしたら、初めて会った赤の他人についても何かあったのではないかと気づくのかもしれない。
「でも……、話したくなかったら、話さなくてもいいよ」
「朋音……」
「でもね。悲しいって気持ちや苦しいって気持ちを無理矢理、抑え込まなくていいんだよ。仁樹君が私にしなくてもいいって言ったとおり、私にもしなくていいんだ……」
「……」
その言葉に。
仁樹は片手で、そっと、彼女に抱き付く。
「『夢』を……、見たんだ……」
「それは……、怖い、『夢』……?」
「あぁ……、〝いつもの〟、怖い『夢』を、な……」
その『夢』を……、思い出して。
『怖い』という想いを表すように、抱き付く腕に力を入れる。
暗い世界─────。
真っ黒に染められた、『闇』の世界に。ポツリ、と立つ仁樹の姿────。
闇は何処まで続いていて、誰もいない。
まるでそれは、仁樹を―――……
逃がさないように、
歩かせないように、
留まらせるように、
閉じ込めるように、
封じ込めるように、
縛り付けるように、
光を奪うように、
道を消すように、
希望なんかないかのように、
仲間なんかいないかのように、
独りぼっちにさせるかのように、
お前なんかいらないと、
押し殺すかのように────
広がっている。
《――ッ!》
そんな世界に立っていると、
『声』が、聞こえてくるのだ――――。
《消えろ!》
《死ね!》
《いなくなれ!》
《悪魔!》
《鬼神!》
《死神!》
《生きるな!》
《人類の敵!》
《害虫!》
《鬼!》
《二度と生まれてくるな!》
《死んでしまえ!》
《災いの塊!》
《化け物!》
《モンスター!》
《怪物!》
《人でなし!》
《屑!》
《死ね!》
《窒息死しろ!》
《溺れて死ね!》
《刺されて死ね!》
《消えろ!》
《価値無し!》
《死ねよ!》
《消えろ!》
《悪魔!》
《化け物!》
《生きるな!》
《死ね!》
《処刑されろ!》
《殺されろ!》
《害虫!》
《消えろ!》
《消えろ!》《悪魔!》
《死ね!》《鬼神!》《処刑台にいけ!》
《死んでしまえ!》《生まれてくんな!》《消えろ!》
《死ね!》《消えろ!》《消えろ!》《死ね!》《死ね!》《消えろ!》
《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《死》《死》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《死》《死》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《死》《死》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《死》《死》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《死》《死》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《死》《死》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》《死》《死》《死》《消》《死》《消》《消》《死》《死》《消》《死》《消》《死》《消》《死》《死》《消》《消》《死》《死》
「……」
怖い――――。
怒号と罵声に満ちた世界から、逃れたくて耳を塞ぎたくなる。
だが、塞いではいけない。夢の中で必死に手を握り、目をつぶり。日が昇るその時まで耐え続ける。
この『魂』たちの叫びは、『罰』だから。
仁樹が多くの『人』を殺めてしまった、仁樹の『罪』への――――。
〝死者の『魂』〟が与える、『罰』なのだから――――。
仁樹の身体は震えていた。罰であり、自分の存在を許さない、魂の声たちに。
受けなければならない罰に、怯え、恐れる、正直でどうしようもない身体。
そんな情けなくてしょうがない彼の背に、朋音は優しく片腕を回す。
「強過ぎる恨みは、消えるのが難しいの……」
子どもをあやすように、優しく背を叩く彼女の手。
いつも。この『夢』は、事件が終わるたびに仁樹に襲い掛かってくる。
勘違いするな。いくら人を救おうとも、お前は所詮『人殺し』だ――――、と。
彼らが持つ、『想い』という名の声を戒めに。
「いつもなら、我慢できた……けど」
「けど?」
「〝今回は無理だった〟……」
広がる闇の中で。四方八方から、声を槍として、矢として、刀として仁樹を狙うこの空間で。
一人。たった一人の、『人』が仁樹の目の前に現れた。
それにより。それだけで、そこは〝いつもとは違う〟夢の世界となる。
声の嵐は止まらないけれど。闇の世界に、仁樹以外の色が現れる。
『〝許さねェから〟……』
しかし。だからといって、仁樹に友好的とは限らない。
口を開いて出た言葉。それは当然のように、魂の声たちと同じ「憎しみ」、「恨み」、「悪意」を隠すことなく含んでいた。
『〝みんな〟』
身分を表す学ランに、少々収まりの悪い黒髪。幼さを残すその顔と合わせると、まだ少年と言えるであろうその姿。
だが―――。その姿から感じさせるものは、年相応のものでは無い。
『〝順一〟……。〝吉平〟、〝大和〟……。〝昇〟……』
「――――ッ!」
その手を伸ばして。すべて、その想いのままに。動かぬ仁樹の首を絞めることなど、簡単であっただろうに。
しかし、少年は動くこともなく、ただ、ジッ、と睨み続ける。
『怨念』と『侮辱』を宿らした目に、少年らしさなど何処にも無い。
『なんで、なんでだよ……』
「あ……、あァ……!」
沈黙を続けていた仁樹の口から声が零れる。
決して、この世界では弱音を吐かないように我慢していたのに。罰を受ける存在として耐え忍ばなければならないのに。
一人、現れた少年の眼差しと言葉。彼の〝『憎悪』の炎〟に、仁樹は思わず〝してはならないことをしてしまった〟。
その想いに圧倒され、〝後ずさりをしてしまったのだ〟。
「……!」
その一瞬で。
〝身動きが出来なくなった〟。
《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》《逃げるな!!》
魂たちの見えない言葉の鎖が、仁樹の身体に絡まり、そこに留まり続けるようにキツく縛り付ける。
死ではないけれど、それと違った『恐怖』に怯えるその目に、少年の姿は徐々に大きく映し出される。
逸らすことを知らない少年の目。
そして、――――
「アァ……!」
仁樹は、少年を知っている。
自分を見るその目を。それと同時に、仁樹の目に入ってくる、〝何処にでもあるようなもの〟。
『人』が、〝必要なときに使うような『もの』〟を、はっきりと覚えていた。
『俺たちが何したってんだよ……』
ただ、それが〝あり得ない部分にあるのだ〟。
少年の手ではなく、足でもなく、肩でもない。考えられない。何故、そこにあるのかと疑問を持つ部分に。
……いや、考えることは出来るであろう。だが、それはあまりにも惨く、考えたくもない理由。
「……!」
〝腹に、突き刺さる〟―――――、
〝真っ赤に染まった、『傘』〟――――――。
『〝何もしてねェだろ〟……!!!」
『少年』が『仁樹』に、怒りをぶつけた。
『〝ナァ、知ッテルカ〟』
『〝傘デモ人ハ殺セルンダゾ〟』
「アァ……!! ウアァァア……!!」
その言葉が過去の、刹那の、残酷の、後悔の記憶を呼び覚ます。
感情も自我も何もない。ただの『人形』であった自分を。
震える声。溢れる涙。だが、この世界には仁樹の味方など何処にもいない。
親友も。家族も。愛しい彼女もいないこの世界で。日が昇るまで、目覚めることのないこの世界で。
拒絶することが許されぬ、背を向けてはならない『罪』と『罰』に、『精神』を捧げ続けなければならない。
それが、彼が『人』に犯した罪の――――――、
〝『人』からの罰〟だ―――――。
「仁樹君?」
「……!?」
朋音の手が仁樹の頬に触れる。
思い出した、『罰の夢』によって無意識に、自分の頬に涙が流れていたことに気付く。
「情けなねェ……。本当に……」
逃れてはいけないと分かっていながらも、覚悟していながらも。
いつもとは違う世界に落とされただけで、その身は恐怖に縛られる。
「情けなくていいんだよ。私の前では情けなくて大丈夫だから」
流れる涙を背に回していた手で優しく拭い、それでも止まらず、静かに涙を流し続ける仁樹に朋音は暖かくほほ笑んだ。
人に与えた『死の恐怖』が廻り巡って、違う『恐怖』という形として、己に戻ってくる罰。
それは、世の理。人の理――――。
「理から……、〝世界から除外された俺〟に、与えられる『罰』、か……」
〝世界から除外された存在〟。
世界から追放された仁樹は、〝世界から『人』として見られることはない〟。
それは、彼が〝世界に犯した『罪』によるもの〟。
世界は真っ白なキャンバス。色は世界に生きるもの。
命あるものすべては生まれたときからの絵師。いや、生まれる前からの絵師。
命の一つ一つが握って生まれてきた自分の筆を持ち、自分の作り出す色で塗っていく。
赤、青、黄、緑、桃、茶、黒、白と力強く丁寧に塗っていく。
いずれその手が止まるまで、筆がボロボロになって折れるまで塗り続けていく。
生きるものにとって世界は必要。世界にとって生きるものは必要。
なのに―――――。
仁樹は、それを〝忘れた〟――――。
生きるものであることを、『人』であることを忘れ―――――。
その権利を、『放棄』―――――。
『仁樹』は世界を必要にしなかった。『仁樹』は世界に必要にされなかった。
世界が『仁樹』を愛さないように、『仁樹』も世界を〝愛さなかった〟。
『仁樹』に『愛なんかなかった』。
存在する『仁樹』を世界は認めない。
自分の『筆』を持たない、色のない『仁樹』を世界は認めない。
『仁樹』には〝何もなかった〟。〝何も持たなかった〟。〝持つことすらしなかった〟。
だから、世界は除外した。世界から除外した。
世界にとって異端なものとして除外した―――――。
それが、〝『世界』からの罰〟だ―――――。
「人の想いはね、時として世界の力をも超える……。奇跡を、持ているんだ……」
〝『人』からの罰〟と‶『世界』からの罰〟。
本来ならば、世界から除外された仁樹は『世界』からの罰により、運命による罰を与えられない。
それは、廻り巡って与えられる筈であった『罰』――――。
しかし。いくら『世界』からの罰であっても、〝それ以上に恐ろしい罰〟が待っていたにしても、『人』は納得など出来なかった。
仁樹への『憎悪』。
それが、『世界』の力、理を超えた。世界から除外された存在に、『人』の想いが罰を与えた。
『人』、か――――……。
「……さっき」
「うん」
「ベランダから、下を見たんだ」
頬から伝わる朋音の手を感じながら、街を見たあとに見た、灼熱のアスファルトを思い出す。
「落ちない自信は勿論あった……けど、思ったんだ……」
〝この『俺』でも、頭から落ちたら死ぬ、って─────―〟。
「当たり前だよな……」
何をいまさら。当たり前なことを忘れていた、自分の馬鹿さを愚弄する。
『人形』だと。『感情』も『自我』もない存在だと言われてきても、所詮、身体は『人』だ。
その身を切れば赤い血が流れ、その目を潰せば光を失い、その足を失えば自由を奪われる。
その呼吸を止めれば、その心臓止めれば、普通に死ぬ。当たり前のように、死ぬ。
「人は、脆い」
その『身体』も、『精神(こころ)』も。些細なことで深く傷を負い、死んでしまうぐらい脆くて弱い。
「けど。人は、強い」
強い、想いと覚悟があれば。『身体』は『精神(こころ)』を信頼して動いてくれる。
『人』は『矛盾』。『矛盾』は『人』。
「なぁ、朋音」
「なぁに?」
包み込む手が暖かい。そんな彼女の手に、抱きしめていた手を重ねる。
本当は戸惑ってしまう程、重ねることを許されない、罪に染まったその手で。
自分よりも小さい手を覆い隠す。
「〝俺は、『人』になりたい……〟」
例え、世界が、人が。仁樹という存在を『人』と認めてくれなくても。
『人』になりたい―――――。
「たまに、感じるんだ……。『人形』であった自分が、すぐ傍にいるって……」
あの時のように。何も持っていない、『無』の自分を。
何も感じないまま。何も意識しないまま。人を次々と襲っていった自分を傍に感じる。
「〝何も無い『人形』〟に、戻っちまうんじゃねェのか、って……」
『皮』――――。
いまの仁樹は、『人形』という『皮』から抜け出している最中だ。
だが、最中であって完全に抜け出した訳ではない。いつその『皮』を被ってしまうかわからない。
「怖いんだ……」
あの頃に、戻ることが―――――。
「大丈夫」
「……?」
朋音の手が、仁樹に包まれたまま頬なぞる。そして、髪に触れた。
不規則に染まった、金と黒。『光』と『闇』が混ざり合った髪を優しく撫でる────。
「私も……、『約束の髪』も。仁樹君を守るよ」
「……朋音ッ」
今度は、目に涙が滲むのがわかった。皺を寄せて目をつむり、こらえようとするも叶わない。
ならば、せめて声だけは、と。必死に殺そうとするも、詰まらせたような声が抑えきれない。
そんな仁樹を、朋音は我が子をあやすように頭を優しく、本当に優しく撫でていく。
〝『約束の髪』────〟
黒である『闇』は、過去の自分。『人形である仁樹』を────。
金である『光』は、未来の自分。『人である仁樹』を────。
『人形』から、『人』になることを誓った――――。
〝彼女と共に歩いていくことを誓った、『約束の髪』―――――〟。
「俺は、自分勝手だ」
黒髪が残っているのは過去を忘れないためとか。朋音のように他者のために戦う償いの証とか。
そんな格好いいものではない。
黒髪は自分への軽蔑の心。戦うのは否定の行動。
まだ自分を、〝元『人形』〟とは思えていない仁樹がいる。
自分勝手だ。最悪だ。そんなのわかっている。
だけど――――。
「『人』に、なりたい……」
「仁樹君は、『人』だよ。私の、大切な、愛しい『人』……」
「ありがとう……、俺を『人』と言ってくれて。……だけど、〝『俺』が『俺』を『人』とは認められない〟」
一つ間違えれば、何も無い『人形』に戻ってしまう自分を、『人』として認められない。
しかし。もし、仁樹が自分自身を、『人』だと認められた時が来たら―――――、
この髪は、金に染まるのだろう―――――。
「仁樹君が、仁樹君を認められたら……」
「あァ、〝呼んでくれ〟――――」
「うん。『約束』だもん」
自分勝手な仁樹の、自分勝手の約束――――。
『お前が決めた、その最愛となった『人』への『愛』。俺との約束にしてくれないか?』
仁樹が黒髪だった、最後の記憶。
月明かりが輝く夜の道を、二人並んで、初めて恋人として手を繋ぎ、歩いて行った記憶。
『俺が、俺自身が、自分を『人』だと認められたら―――――』
切なそうに、それでも愛おしそうに、自分と並ぶ愛しき人、朋音に伝える――――。
『〝「仁樹」と呼んでくれ―――――〟』
男性には敬称と、決して呼び捨てにしない朋音が、幼い頃から決めた『愛の証明』。
いつか、彼女の持つ、たった一つの――――、
〝一途で『揺ぎ無い愛』を誓う男性〟に出会ったときに証明する、『愛』――――。
その『愛』を、その『約束』を。彼女は待っていてくれる―――――。
「朋音」
「なぁに、仁樹君?」
「愛してる」
もっと。多く。たくさん。朋音に伝えたい。
自分勝手な自分と、共にいてくれる彼女に。心の奥から深くから、朋音を愛してる、ということを。
俺の一番最初の感情を教えてくれたお前に────……。
「愛しています」
「はい。私もです」
お互いに顔を近づけ、互いの唇に触れる。
いつか、約束が果たされ、それが永遠の誓いになることを祈って――――。
触れた唇同士が離れ、共に瞳を閉じる。
仁樹は朋音を抱きしめ、朋音の心音を聞きながら眠りに落ちていく。
こうして、仁樹は久しぶりにゆっくりと、眠ることが出来た―――――――…………。
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