神と罪のカルマ オープニングfirst【04】



《──区で女性が傷だらけで倒れていると通報がありました。怪我などからみて犯人は……──》

「やぁ、仁樹!」
 時刻はあと数分で二十三時。
 都会ということもあって、夜に出歩く人が多い。
 仕事帰り、飲み会、大学の集まり。各々の理由を持ってこの光り輝く夜の街を人々が自分のペースで歩いていく。
 仁樹もまた、本日の仕事を終了させ自宅への道として街中を歩いていた。
 そんな彼の名前を呼び駆け寄ってくる人物が一人。
 明るい声。そして、仁樹にとって聞き慣れた、とても親しみのある声。
 足を止め、寄ってくる人物へと身体ごと向ける。
「よォ、海琉」
 海琉と呼ばれた人物は、仁樹との出会いを喜びながら彼の前に立ち止まる。
 見た目からして仁樹とは同い年といったところだろう。
 男性にしては長い髪に、優しげな瞳。
 顔は、きっと彼への第一印象を位置づけるであろう。陽気で少年のような笑みを持ち、他者に悪意や裏などを一切感じさせない。
 彼を一言で表すとすれば、声と同じ「明るさ」と誰もが答えそうだ。
 そんな彼の名は飛田海琉(ひだかいる)。
 財峨仁樹の人生で唯一無二の親友である。
「仕事の帰りかい?」
「あァ。お前は?」
「ちょっと、妹に差し入れをね」
 よくみると海琉の手には風呂敷がぶら下がっていた。見た目からして多分中身は三段ぐらいの重箱が包まれているだろう。
「いまはその帰りなんだ」
「つうことは、それは差し入れし終わった空っぽの重箱ってことか?」
 このぐらいの量だ。昼ぐらいに持っていったが食べ切れず、夜になるまで少しずつ食べて空にしたのだろう。
 そして、こんな時間になっても妹の仕事場までいって重箱を回収し、妹の様子を見に行ってきたというところであろうか。
 相変わらず、本当に仲の良い兄妹だ、と密かに感心した。
「当たり!いや~、びっくりしたよ。仕事仲間と食べたからってまさか差し入れ三十分後で重箱が空になるなんてさ!」
「……」
 親指を立て、最高の笑顔で面白おかしく話す海琉。
 言葉を失った。というよりか唖然した。
 それ以外の選択肢がすぐに見つからなかった。
 予想は裏切られた。
「なんでも朝食すらまともに取れなかったらしいね」
「俺、あいつの食生活が心配になったぞ」
 やっと出たのは食生活への心配。
 なんでも差し入れにいったのは午後九時過ぎだったらしい。
 そんな時間に重箱三段をも作って持って行く海琉も海琉だが、そんな時間に食べて太るとかまったく考えなかったのか二人の仲間と食べきったという妹。
「食べられる時に食べて身体に栄養貯えないといけないらしいよ」
「男前だな。女としてスタイルとか気にしてねェのかよ」
「ちゃんと気にしてるよ。でも、今は体力が最優先らしい。
 それに、食事どころか睡眠すら最近まともに取れていないみたいなんだよ」
「職業柄しかたねェことだけどよ。今回も結構家に帰ってないんだってな?」
「あんな男だらけの場所で泊まり掛けなんて……」
 お兄ちゃんは心配だぁ……と、大袈裟に肩を落とす海琉。
 妹の事を心から心配している彼は良く言えば妹思い、悪く言えばシスコン。
 だが、いまの彼の状態を見ている仁樹が答えるとしたら間違えなく後者を答えるだろう。
 何故なら海琉から紛れもなく〝それ〟を感じるからだ。誰もが全力で引いてしまうほどのドス黒いオーラ。
 世間一般では、これを『殺気』と呼ぶ。
「海琉。あいつの仕事場に何してきた?」
「……え、普通に差し入れだけど?」
 目を反らされた。目を反らされて嘘を付かれた。
 目は口にほど物をいうとはまさにこのこと。
「しょうがないだろ!心配して何が悪い!」
「ギャグ切れか」
「俺の妹はあいつだけなんだ!」
「なんかかっこいいな」
 シスコンを此処まで堂々と格好良く言える人間はそう簡単にはいない。
 妹の事を心配しただけで殺気を簡単に出せる海琉。
 一瞬、海琉の妹に男が出来た時にどうなるのかと、そんな考えが仁樹の頭を過った。
 だが、本当の一瞬だけ。考える必要はない。
「この兄にしてこの妹ありだな……」
「俺の妹がどうかした?」
「いや。お前の妹も兄貴っ子だよなァって」
「あぁ、それは納得出来てるし、素直に俺も妹も認めるよ」
 妹は俺以外の男とはあまり仲良くしないしね。
 ははっ、と笑う海琉に溜め息がこぼれる仁樹。
 最近、あまり会っていない彼の妹。見た目は彼をそのまま女性にしたような外見。
 だが、似ているのは外見だけ。性格は全然似ていない。
 彼みたいに気軽に話せるような性格ではなく、むしろ近寄りがたい雰囲気を常に醸し出している。
「妹ねェ……。俺、いまだに嫌われてるんだよなァ」
「それは仕方が無いよ。気にしない気にしない。口を聞いてる分、俺の親父よりマシだよ」
「あー……失礼だってわかってんだけどよォ、俺もあの人のことは駄目だ……」
「いいよ。俺も嫌いだし、妹の原因も親父だからね」
「……」
「どうしたの?ジロジロと見て」

 時折、仁樹は思う。
 この話題になると親友は妹の時とは違い、父親に対して何も感じていない事を。
 本来あるはずの親子という『親しみ』。「嫌い」と言っておきながらも、それを込めた『嫌悪感』も。
 陽気な顔には何一つとして、表されない。相手にも感じさせない。
 それは、『無』。彼は実の父親に対して『無関心』。何も思っていない。
 まるで父親が生きようが死のうが自分には関係が無いとでも言っているように――
 仁樹が黙って自分を見ていることを不思議の思いながら、伸ばしに伸ばした髪を片手でイジる。
 それは昔からの海琉のクセ。
 もし……、もしも父親に対して何かあるとすれば、彼がたったいまイジっているものであろうか――。
「いや……。相変わらず髪長ェなァって」
「最近伸ばし放しだから整えなきゃいけないけどね。もちろんバッサリと切る気は砂の一粒もないよ」
「ラーメン喰う時とか邪魔にならねェ?」
「はっはっは、鋭いね!でも、心配無用!いつもヘヤピンとか持ち歩いているから大丈夫!」
 何故、彼の妹は仁樹を嫌うのか。
 何故、髪を伸ばすのか。
 何故、この兄妹は実の父親を嫌うのか。
 兄妹だけにしかわからない思い。兄妹だけの過去。
 親友だからと言ってズガズガ入り込んではいけない。
 仁樹は、それをわかっている―――。
「そうだ。海琉、今度ウチの店来いよ。飯おごりてェから」
「あれ?俺、おごられるようなことをしたかな?」
「ほら、この前の夜。酒飲んで酔った〝あいつ〟のこと部屋まで送ってくれただろ。そのお礼」
「いいよ、そんな。お前もあの子も俺の〝大切な人〟なんだから。当然なことをしたまでさ」
「これはあいつの『彼氏』としてお礼がしたいんだよ。いいからおごらせろよ」
 仁樹は言い出したら終わらない、切りがない。
 そんなことは、親友である海琉には勿論わかっていることで、手を上げて降参したようにへらっ、と笑う。
「わかりました。わかりましたとも!おごらせてもらいます」
「よくわかってんじゃねェか」
「わかってんなら、もう少しその性格考えたらどうだい?」
「残念だが、〝あいつ〟のおかげで増々磨かれている」
「あーもー、似た者同士の彼氏彼女ぉ」
「まァな」
 褒め言葉として受け取っておく。
 困り顔の親友へと笑いながら返した。
 このようにふざけ合うも、仁樹は海琉への感謝の気持ちを決して忘れない。
 自分は料理人として生きている為、思うように時間が取れない。いや、無理して取ろうとすると『彼女』が怒るのだ。
 自分自身が決めた道なのなら最後までしっかりしろ、と。
 しかし、彼女を守りたい気持ちは変わらない。
 どうするべきか。そんなときに手を差し出したのが海琉だった。
 自分が料理人として生きていけるのも、彼女が安心して夜道を歩けるのも全部、目の前にいる親友のおかげ。
 こうして、〝自分を守れる〟のも、全部――……。
「本当にお前には感謝し切れねェよ」
「何々?この妹思いの素晴らしいお兄さんに何か言ったかい?」
「まだ妹ネタを引きずる気かよ」
 せっかくの雰囲気が台無しじゃァねェか。
 雰囲気ぶち壊し。いい加減にしろよと全身からオーラ発生させて訴える仁樹。  それに臆する事なく笑う海琉はまさに強者といったところだろう。
「いまの俺は深夜テンションだからさ。気持ちがハイなんだよ」
「深夜じゃなくてもお前はいつもテンション高ェだろ」
「そんなわけないよ。いつもはこれの6割7分2厘4毛ってぐらいじゃないかい?」
「無駄に細かく無駄に漢字使って表してんじゃァねェよ。全然十割、全部いつものテンションだ」
「嘘だ!俺は認めないぞ!」
「認めろよ。何ならビデオに撮って自宅に宅配便で送りつけてやるよ」
「金払ってまで見せたいの」
「着払いに決まってんだろ」
「金を払うのは俺なの!?」
「当たり前だろ。あと、素晴らしいお兄さんなら後ろの〝そいつ〟をほったらかしにはしねェ」
 大の大人のくだらないボケとツッコミで繰り広げられた攻防戦。
 そんなどうしようもない戦いを終結したのは仁樹の『それ』発言と海琉が持つ重箱……ではなく、その後ろ、つまり海琉の後ろにいる『そいつ』への視線であった。
「あ、やっぱり気付いた?」
「こんなに近くにいるのに気付かない訳ねェだろ」
「いやぁ、わかんないよ。信じる心があれば気付かれないことだってあるさ」
「お前は何処のネバーランドの住民だ。しかも、なんか寂しいぞその能力」
「妖精の粉が必ずしも夢いっぱいってわけではないだろう?」
「子供にとっては夢いっぱいなもんだろ。夢壊すなよ。つーか、お前と漫才してる場合じゃねェ」
「えー」
 海琉のペースに乗ってしまってはいけない。
 ワザとかと思わせるぐらい話が脱線されてしまうから。
 学生時代の頃から何回も経験した仁樹にはわかっていることだ。
「えー、じゃァねェよ。たく……、ほら、さっさと〝出てこい〟」
 仁樹の言葉に反応して『そいつ』が動く気配がした。
 だが、海琉の後ろからいっこうに現れない。
 しばらく視線だけで出てくるように訴えるが、その場から動かない状態が続いた。
 いい加減痺れを切らせた仁樹は腕を組み、不敵な笑みを浮かべる。
「ほォ、そういう態度を取んのか……?」
「うわぁ、嫌な顔だねー」
「大人ってもんは嫌な顔出来て一人前なんだよ」
「純粋な俺は、そんな知識知りたくなかったよー」
 この後、仁樹が何をするのか、何を〝発動〟するのかを海琉はわかっていた。
 わかっていながらも、とぼけた声で笑う。
 それは、己の背後に立つ存在にとって絶大的なるダメージを与えるもの。主に精神へ。
 発動されては負けを認めるしかない強さを誇る。

 人は、これを〝必殺技〟と呼ぶ――……。

「いいんだぞーそうやって隠れていても。隠れてるってことは俺と話したくないんだよなー。遊びたくないんだよなー。構って欲しくないんだよなー。
俺はとーても寂しいけどしかたないよなー。そっか俺ともう一緒にいたくないんだなー。寂しいなー。悲しいなー。でも、我慢するしかないもんなー。
キャッチボールとか、サッカーとか今度一緒に公園でやろうかーって思ってたけど、それも出来ないんだなー。あーあ、楽しみにしてたのになー。残念だー」
「凄い嫌な奴だねー」
 素晴らしき苦笑いをプレゼントされた。
 しかし、さすが必殺技と言ったところだろう。
『そいつ』が前へ出ようか出ないかと海琉の後ろで迷っているのが気配……というか端からちょくちょく見える髪でよくわかる。
 隠れ続けるより素直に出ていった方が賢明なのだが、出ていった後のことが恐ろしいのか。
 さすがに可哀想に思えてきたのか、海琉は自分の後ろに優しい視線を送る。
「大丈夫だよ。あいつ、なんだかんだ言って、君には甘いからさ」
 素直に出ておいで?
 後ろにいる『そいつ』の頭を優しく撫でる海琉。
 すると、やっと覚悟を決めたようで海琉にゆっくりと背中を押されながら前に出る。
 やっと仁樹の前に顔を下に向けたまま出てきたのは、こんな時間にはとても珍しい存在。
 小学校低学年ぐらいであろう小さな男の子だった。
「こ、こんばんは……」
 腕を組みながら立っている彼が怖いのか、下を向いたまま挨拶をする男の子。
 いや、男の子でなくても無理は無い。
「おー、〝こんばんは〟だな。〝こんばんは〟って時間だな」
 発せられる声すらも普通に怖かった。
「俺は『話すときは人の目を見ろ』って教えたよなァ?」
「……うん」
「なら、ちゃんと顔をあげろ」
 怖さで肩が震えている。はたから見れば、まるで魔王と子羊のようだ。
 しかし、最後には観念したのか。顔をゆっくりと上げて自分の目を仁樹の目へと重ねた。
 仁樹の瞳に子どもの顔が―――、〝仁樹にそっくりな〟子どもの顔が映る。
「灯真。まずは言うことは?」
「えーと……」
 灯真と呼ばれた子どもは、仁樹と同じ漆黒の瞳をきょろきょろと動かす。
 目を見ろと言われたが、怒っている相手に視線をすぐにと合わせるなど恐ろしくて無理だろう。
 本人自身も必死に合わせようとしているのだが、何度も言おう。普通に仁樹が怖過ぎるのだ。
 しかし、生き写しとはまさにこのことだろうか。
 仁樹をそのまま子どもに戻したような顔立ちに、痛みなどまるで知らない漆黒の髪が夜風によって揺らされている。
 ただ違う点をあげるとすれば、その切れ長な目と眉は仁樹のような攻撃的ではなく、幼さゆえの柔らかさを持っていた。
 子どもの名は、財峨灯真(ざいがとうま)。
 いまにでも泣きそうなその顔が彼にそっくりなのも当たり前。
 何を隠そう、灯真は仁樹の、歳の離れた実の弟であるのだからだ。
「言うことは?」
「うぅ……」
「い・う・こ・と・は?」
「……ごめんなさい」
 仁王立ちに加え長身の仁樹と子供の灯真との身長の差。
 とうとう彼の威圧に耐えられなくなったのか、再び俯いたまま謝った。
 本当は目を合わせて言って欲しかったのだが、今回はコレで勘弁してやることに。
 流石にこれ以上は酷というものだ。
「で、灯真。何してたんだ」
「……」
「仁樹、怖過ぎ大き過ぎ。灯真君話したくても話せないよ」
 ねぇー♪、と仁樹とは違い腰を曲げて微笑みながら灯真に顔を近付ける海琉。
 それによって灯真は俯いていた顔を上げ、彼の微笑みを見て落ち着いていくのが目で見てわかる。
「はァ……」
 続いて仁樹もその場にしゃがみこんだ。
 海琉の言うとおり、見下ろされながら怒られると言いたい事も言えないだろ、と。
 視線を話やすいように灯真に合わせ、今度は優しく問いかけた。
「で、何してたんだよ」
「かいるお兄ちゃんをびこうしてた」
「びっくり!尾行されちゃってた!」
「尾行させたの間違いだろ」
 絶対気付いてた。そう断言出来る。
 ワザらしいウィンクしてくる海琉に腹が立ったので一発殴っておくことに。
「灯真、いま何時だと思ってんだ?もう二年生なんだから時間の読み方はわかるだろ?」
「十一じ……」
「朝と夜、どっちの十一時だ?」
 しゃがみこんだその場から上を見る。
 そこには本来あるはずの真っ黒に塗り潰された夜空はなく、重々しい雲が広がっていた。
 先ほどまで晴れていたようなと思っていると、小さい声で灯真から返事が返ってきた。
「よるぅ……」
「だよなァ、夜の11時だ。そんな時間に一人で歩いてたら危ねェだろ?」
「でも、ひとりでまちにきたわけじゃないよ」
「そうだろうね。大方博士と一緒に来て別行動をしてるって所かな」
「あそこにお父さんいるよ」
そう言って灯真が指差したのは、ここから十数メートル離れた場所にある焼肉店。
「あそこからびこうしてたんだよ」
「……そんなに尾行してなかったね」
「尾行って距離でもねェだろ」
 たった十数メートルの短い尾行だった。
 それでも、「びこうだよぉ」とあくまでも灯真はこだわるらしい。
「今日ね、お父さんのおしごとおわるのおそかったんだ」
「何時ぐらいに終わったの?」
「九じだよぉ。でね、なにたべたいってきかれたから、お肉っていったの」
「それで外で焼肉か」
 面倒臭らずに家で作れ、それか出前を取れ、と言わずにはいられなかった。
「あはは、博士らしいね!」
「つうか、博士も博士だろ。こんな遅くまで小せェの連れ回すんならしっかりみてろっての」
「でも、灯真君。明日学校お休みで良かったね。朝遅くまで寝られるよ~」
「うん~」
「うん、じゃねェよ。いまの内に夜更かしして遅く起きる癖でもついたらどうすんだよ」
「ほらほら、寝る子は育つっていうじゃない」
「遅く寝て遅く起きるだけで、睡眠量は変わらねェよ」
 灯真の平均睡眠量は八時間三十分。夜の十時半に寝て、朝七時に起きる。
 子供として健康で十分な睡眠量。だが、ロードショーをいつも最後まで観ることが出来ないことに本人は最近悩んでいるようだ。
「ほら、見ろ。普段なら寝てる時間に起きてるもんだから舟漕ぎ始めてんぞ」
「うーん……」
「あらら」
 とうとう眠くなってきたのか器用に立ちながら舟を漕ぎ始じめる灯真。
 こころなしか返事もだんだん小さくなってきている。
「灯真、明日ちゃんと起きろよ。遅くても9時には起きろ」
「んー……」
「言うこと聞かねェと今度の休み遊んでやんねェからな」
「や~」
「なら、約束守れよ」
「は~いぃ」
「いやぁ、やっぱり仁樹はブラコンだね!!」
 殴った。拳で陽気な頭を間髪入れずに殴った。
 てめェにだけは言われたくねェという気持ちを込めてもう一発殴った。
「もー!仁樹、人の頭殴りすぎでしょ!」
「てめェが余計なこと言うからだろ」
「あ、言ったな!覚えておきなよ!今度ボッコボコにするから!」
「上等だコノヤロー」
「お兄ちゃん?」
「あぁ、いきなりごめんな。それじゃァ、『博士』と帰って寝ろよ」
 突然目の前で言い争いを始めれば驚くもの。
 驚かせてしまったことを素直に謝り、弟に家に帰るように促す。
 もう高さを合わせる必要はない。仁樹はその場で立ち上がる。空がぐっと近づいた。
「焼肉店まで送る。近いけどな」
「……わすれてた!」
 突然、何かを思い出したらしい声をあげる灯真。
 何事かと見下ろしてくる二人に口を開く。
「あのね、たすけてほしいの」
 暫しのの沈黙。
「……はァ?」
「……はい?」
 口から出たのは大人の情けない声。
「いまね、すごくたいへんなことになってるの」
「……灯真、そういうことは忘れないようにしような?」
「は~い」
 眠たそうに返事する弟。そんな弟に肩を落として呆れてしまう兄であった。
「何がそんなに大変なんだい?」
 腰を曲げて詳しく内容を聞こうとする海琉。
 その隣で仁樹は周りにその『大変なこと』になっているであろうかもしれない場所を捜す。
 人々が減る気配を全く見せない街は、先ほどと何一つ変わらずに時を過ごしている。
 ざっ、と見たところ殴り合いなどの暴力関係の問題は起こっていない。
 人が人を避けながら街の中を自由に歩き回っている過ごしている光景だけが目に映る。
「喧嘩ってわけじゃねェか」
「大変なことイコール喧嘩ってどういう方式立てているのさ」
「お父さん、おさけのんでよっぱらっちゃった」
「え、灯真君。いまなんて言ったのかな?」
 思わず聞き返す。信じられないものを聞いたかのように。
「よっぱらっちゃったの~」
「誰が?」
「おとうさんが」
「何で?」
「おさけで」
 開いた口が閉じられない海琉。目を見開いたまま固まってしまった仁樹。
 驚きが隠せない。いや、違う。隠すのが無理だった。
 何故なら、二人にとって何とも予想外なことを聞いてしまったからだ。
「え、博士?あの人酔うの?酔っちゃうの?」
「あの髭面、酔えるんだな……。ザルだと思ってた」
「ぐびぐびのんでたよ」
「酔う程嫌なことでもあったのか?」
「空のジョッキはいくつあったかな?」
「たくさん」
「仁樹、見に行こう!」
「心配より好奇心の方が勝っただろ」
 しかし、無理は無い。その『博士』『髭面』を表す人物が酔う姿など天地がひっくり返っても見ることなど無いと二人は思っていたのだから。
 見たこともない未知なるものへの好奇心が勝ってしまうのも仕方が無い。
 また、此処で立ち話を続けても仕方がない。昼間より人がいないとはいえ三人がいる場所は人が通る道だ。
 通行の邪魔にならないよう、海琉の提案通りに博士のようすを見にいくために焼肉店に向かうことにした。
「ほえ?」
「灯真どうした?」
「なんか当たったぁ」
「雨じゃないかな?今夜降るって天気予報で言ってたよ」
 しまった、と眉を潜める仁樹。通りで見上げた空に雲が広がっていたわけだ。
 今日から数日は続く。そう今朝のニュースで伝えていたのに、傘を自宅から持ってくることを見事に忘れていた。
 傘を忘れた朝の自分を呪い、せめて雨が酷くないことを願う。
 ずぶ濡れになるのだけは勘弁。灯真に引っ張られ歩きながら思っていると焼肉店の入り口の前にいつの間にか到着していた。
 十数メートルとは本当に短い距離であった。
「席は何処だ?」
「入り口からお父さんみえるからわかるよぉ」
「お邪魔しまーす!」
 そんなに早く見たいのか。ウキウキと子供みたいに手を扉へと伸ばし横へ引いて開ける。
 扉についていたベルが店内に響き渡り、奥から店員の来店客への挨拶が聞える。
 店をぐるりと見渡す。すると、入り口のすぐにある座敷の席に見覚えのある後ろ姿を見つける。
 間違えない。『博士』だ。
 こちらには気付いていない。海琉も見つけたようで、楽しみを隠せない足取りで近づいていく。
 その後を、仁樹と灯真が追う。
「博士ー!……っえ?」
「うェ……」
「すぅー……」
「……うそぉ」
 彼のお得意のハイテンションと陽気な笑顔で博士の前にいきなり姿を現す。
 彼の事だ。驚かせようとしたのだろう。
 だが、それは叶わなかった。それどころか海琉自身がその場で固まってしまったのだ。
 どうしたのだと、追いついた仁樹の目に映ったのは、壁に寄りかかって寝ている髭面の眼鏡ワイシャツ親父。
 もといザルだと思われていた目的の博士……と、綺麗にテーブルに並べられた大量のジョッキ。勿論、中身は空だ。
「予想外……」
「過ぎるだろ、コレ……」
 確かに「たくさん」灯真は言っていた。しかし、この状態を誰が想像出来たものか。
 軽く二桁は超えているであろう。食べた肉や料理の皿より空のジョッキによってテーブルは埋め尽くされていた。
「灯真。これ全部、博士が飲んだのか?」
「うん」
「知り合いと一緒に飲んだとかじゃなくて?」
「ひとりで」
「初めて空ジョッキを見て気持ち悪くなったよ……」
「同感だ……」
 仁樹や海琉も酒は好きだ。だが、二人合わせても博士の量には適わない。
 いったいどんな胃と肝臓をしているのか。しばらくは酒は飲みたくないと思ってしまう二人。
 そんな彼らが近くにいるとはつゆ知らず、博士は真っ赤に染まった髭顔で眠り続ける。
「よぉ、坊主」
 しばらく博士を呆然と見ていると店の奥から店員らしき中年の男が現れた。
 こちらに向かってくる、と思いきや灯真に向かって話しかける。
「兄ちゃんたち捕まえられてこれたんだな」
「うん」
「捕まえられてこれた?」
「おうよ。なんせ坊主の親父さん酔いまくって仕舞には寝ちまったもんだからよぉ」
「へー……」
 もう既に酔っ払い博士への好奇心は薄れていた。
「聞いてみれば家に誰もいないっていうもんで、途方に暮れてたところに坊主があんちゃんを見つけたのさ」
「え、俺を?」
「なんとかしてもらおうと思ったの」
 尾行されていたとは気付いていたが、何故尾行されていたのか知らなかった海琉。
 まさか、このような事態のために後を追いかけていたのかと驚きが隠せない。
「なんですぐに声かけなかったんだ?」
「かいるお兄ちゃんがはしってお兄ちゃんのところいっちゃった。でね、おいかけたんだけど、はなしかけづらかったよ」
「……」
 ――……あんな会話してたら話しかけ辛いよなァ。  ここは大人が反省するところ。大の大人が二人して思う。
「あんたも、こんなになるまで酒を出さないでくれよ」
「いい飲みっ振りだったんでな、つい!」
 どうやら、この大人は反省する気はないようだ。
「おーい、博士起きてくださいよ。灯真君困ってますよ~」
「すぅー……」
「起きる気しねェな」
「まったくね」
「一発殴るか」
「そういう暴力で解決する癖なんとかしなよ」
「はァ……。連れて帰るしかねェか」
 本日一番の長く重い溜め息とともに仁樹は肩を落とす。
 壁に寄りかかる博士を海琉に協力してもらい自分の背に背負わせる。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
 視線を下に向けると弟の姿があった。
 その顔は眉を八の字のように寄せ、心配そうに自分を見上げている。
「大丈夫だ。心配してくれてありがとうな」
 兄は弟を不安にしてはならない。
 口元を緩ませ、なんともないという表情を見せて安心させる。
「それより、悪かったな。お前は何も悪くなかったのに怒っちまって」
「ぼくわるいよ。一人でよるあるいたもん」
「今回はしょうがねェことだったんだろ?」
 灯真は悪くなかった。
 本当に悪かったのは自分たち二人と博士、そしてこの中年店員。
「あそびにいきたい」
「あァ?」
「いろいろなばしょにあそびにいきたい」
「そうか。じゃァ、今度の休みは街に遊びにいこうな」
「うん」
「でも、宿題終わった後だからな」
「わかってるよぉ」
 眠たそうな目を擦りながら嬉しそうに返事を返してくる。
「仁樹、雨酷くなってきたよ。タクシーで帰った方が良くないかい?」
「マジか。つうか、いま俺が博士を背負った意味って」
「雨のせいで意味の無いものになったね。もう降ろすの面倒臭いから背負ったままでいてよ」
「疲れている身体に厳しいこというなァ」
「体力には自信があるって前に言っていたじゃないか」
「あー、はいはい。背負ってればいいんだろ……」
「代わりにタクシー呼ぶからさ」
「頼むわァ」
 了解、と言って海琉は取り出して携帯のボタンを数回押して耳に当てる。以前にも、呼んだことがあるため、電話帳に登録していたのだろう。
 立っていても余計疲れるため、背負いながら座敷に腰掛けて大人しくタクシーが到着するのを待つことに。
 耳元の近くで聞こえる寝息と鼻にくる酒臭さに若干苛立ちを感じる。
「あ、兄ちゃん。その旦那からまだ御代貰ってなかったわ」
「この髭面。起きたら覚えてろよ」
 若干では無くなった。
 眠たそうな灯真に頼んで博士の服から財布を取って貰う。
 流石にこの態勢で札や小銭を取り出すのは困難なため、勘定は海琉に任せることにした。
 早く、電話が終わらないかと視線を海琉に向ける。
 しばらくすると太腿に重さが感じた。
「灯真?」
「すぅー……」
「寝ちまったのか?」
 揺すっても起きる気配が無い。博士に続いて、灯真までもが寝てしまった。
「よく眠ってんじゃねぇか」
「あんた、他人事だと思ってんだろ。この二人連れて帰るの俺なんだぞ」
「家族なんだろ?それぐらい頑張れ!」
 本当に他人事のように言う。
 もうこの店員には構ってられないとでも言うように視線を窓の外へと移した。
 ザァザァと音を立てながらこちらも他人事のように振り続ける雨。
「家族かァ……――」
 背中と太腿に寄りかかる人間の重さと暖かさ。
 それは、自分の家族が生きていることへの証。
「まァ、家族だからこそ頑張るけどな」

 家族だからこそ、かけてもいい迷惑もこの世にはあるのだろう……――。








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