神と罪のカルマ オープニングfifth【05】
〇
「だ、誰だ、てめぇ……!?」
悪役お決まりのセリフ。男は動揺も驚きも、隠すことなく言い放った。
……いや。隠せるわけなかったのだ。
「〝何処から現れやがった〟!?」
雨で視界は悪かった。だが、男は誰もいないことを確かめたのだ。
隠れられるところを。見える範囲全てを確かめたが、何処にもそんな場所はなかった。
では、この傘を何処から……。
「この傘を何処から〝投げやがった〟!?」
傘を使って阻止出来る方法など限られている。
一つは傘を木刀のように使い、包丁を持つ手を目掛けて振り落とすこと。
この方法だと、自分の力をそのまま発揮でき、また傘の威力やリーチを足して相手に倍のダメージを与えさせることが出来る。
傘の威力など、たかが知れたことたが、狙った場所に大きなダメージを的確に与えるとしたらこちらの方が断然に良い。
しかし、仁樹は違った。
彼は〝投げたのだ〟。
傘を畳み、空気抵抗を極力小さくし、男の手を目掛けて槍投げの如く。
〝一切のブレもなく、真っ直ぐに当てたのだ〟。
「ありえねぇ!?」
槍投げの方法。
確かに、傘で阻止出来る方法の一つである。しかし、今回の場合は滅茶苦茶だ。
大量の雨の中、視界が悪い中で的確に、手に傘を当てた。
そのことをありえないと言っているのなら、間違っていない。
だが、今回の「ありえない」はそんなものではない。
投げた位置、つまり『距離』がおかしいと、ありえないと男は叫んでいるのだ。
もう一度言おう。男は誰もいないことを確かめたのだ。
そして、仁樹が現れるまでしばらくの時間が掛かった。
ということは、仁樹は男に〝一切見えない距離から投げたことになる〟。
そして、まだ驚くべき所がある。
投げられ傘は手や包丁を弾き飛ばす威力をもっていた。
それだけの距離で投げたというのに、〝威力が落ちていない〟。
雨も重力も無視した力が傘に込められたのだ。
決めては、その距離を走っての低い高さで衝撃を与えた跳び蹴り。
身体に感じる鋭い痛みは仁樹の平均身長を超える脚によって生まれたものであった。
「なんだよ、お前!? いったい何者だよ!?」
視力も腕力も全てがおかしい。桁違いだ。
「あんた、大丈夫か?」
数々の言葉を投げかけてくる男であるが、仁樹は気にもせず、傍に倒れている女に声を掛ける。
「は、はい……」
視線だけ動かして女を見ると、そこには既に恐怖や驚きなどの感情は無かった。
むしろ想像もしなかったことが連続で起きたせいなのか、ただボーっとして彼らを見ているしか出来ない状態であろう。
女の方に目立った怪我はない。
「なら、合図したら真っ直ぐ突きっ切れ」
「え……?」
「この場はなんとかする。家に付いたら被害者らしく警察にでも連絡してくれ」
「だけど―――!」
女は何も言い返さなかった。言い返せなかった。
仁樹の目が語っていた───。
「いいな?」
黙れ、と────。
それは、先程から喚いている男から受けた恐怖とは全く違う、背に寒気が走るもの。
「無視してんじゃねぇぇええ!!!」
男はとうとう切れ始め、アスファルトを蹴り、自分の問いに応えない仁樹目掛けて突っ込んでくる。
「走れ!」
仁樹の合図と同時に、女は持てる力を全て脚に集中させ、同じくアスファルトを蹴った。
男の視界には、もはや女は存在しない。
ただ見えるのは、自分の邪魔をした者である仁樹のみ。
先程まで殺す気でいた女とすれ違った事など気付かないまま、仁樹に目掛けて拳を大きく振りかざす。
「うぉぉぉぉおおおお!!!!!!」
体格を見れば明らかに男が不利だと、子供が見ても分かるこの状況。
しかし、なんとも愚かな男はそんなことを理解することなく仁樹に襲い掛かる。
「飛田活人流―――」
仁樹は対称に、静かに呟いた。
足を前後に開き、腰を落とす。両手のひらを相手に向け、腕を引く。
「海琉師範代伝授」
「ぉぉおおおお!!!!!!」
突っ込んで来た男の拳を頭をずらすだけで易々と避け、視線は男の腹に狙いを定める。
その瞬間。
「『牙砲』―――」
静かに、技名を口にしながら―――。
その腕を打った───。
「っ―――!?」
打たれ、男はまた吹き飛ばされる。
本日二度。宙を飛ぶ感覚的が身体を襲う。
だが、二度目だ。男は転がりながらも受け身を取った。
何度か転がり、直ぐに体制を直す。
「―――!? ゲホッ、ゲホッ!?」
そして、新たに男を襲うのは湧き上がる吐き気。
「我慢しないほうがいいぞ。腹とはいえ胃に大きなダメージを与えた。気持ち悪いなら吐いた方が楽になる」
「ガハッ!? ま、た……、飛んだ……!?」
相手がこちらに向かってくる力に対して仁樹は逆の方向、つまり相手側へ向かう力を働かせた。
勢いよく突っ込んできた力よりも反対側への力が大きければ、当然だが両掌が腹にのめり込む強さは大きい。
それを利用してタイミングを合わせれば、相手はバネのように吹っ飛ぶのだ。
説明をするのは簡単だが、これを行うのは容易ではない。力、経験、血が滲むような努力をしなければ実現できない。
「なん、なんだよ……、ゲホ、殺す気かっての……!?」
その身に受けたダメージの大きさを示す言葉。だが、人を殺すことに快楽を求めた男が言うには、あまりにも滑稽なことであろうか。
そんな男に仁樹は姿勢を戻し、「殺す気はない」と言った。
「飛田活人流は人を生かし、黙らせる流派だ」
「生かす……!? うるせぇぇええ!!!」
「てめェの方がうるせェよ。技で黙らせられたくなかったら、静かにしろ」
「うっせぇ!!」
混乱と怒りが混じり合った顔を仁樹に向ける。
「お前、変だ!! おかしい過ぎる!! サイボークか何かか、てめぇ!!?」
「サイボークなんかじゃねェよ。普通より身体能力が高い、〝人間の身体〟だ」
痛みで立ち上がるのは困難だと思ったのか、堂々と背を向け後方に転がっている藍色の傘を拾う仁樹。
その余裕すら男を苛立たせることほかない。殺してやりたいと、増々狂気に身体は染まる。
その時、男は気づいた。己の手元に落ちているものに。
「……なら」
腹部を抑え、痛みに耐えながらも男は立ち上がる。しかし、ただ起き上がるのではない。
包丁だ。同時に、傍らに吹き飛ばされていた包丁を拾った。
「人間なら、これは喰らうよな……!?」
仁樹に包丁を向ける。
男の考えは単純だ。殴り合いなどに勝てなくても、刃があれば勝てる。そんな馬鹿な考えにたどり着いたのだ。
刃は肉を切る。ただ、それだけだ。隙を見つけ、切りかかろうと。
「色々と邪魔したからなぁ。切って切って殺してやるよ!!」
「……どうして」
「あぁ!?」
「人を殺してェんだ」
仁樹は問う。
「どうしてだぁ……?」
その問いに、男は気持ち悪い笑みを浮かべた。
「んなの……、これから死ぬ人間には関係ねぇええええ!!!!」
刃物を持つことで己が一気に有利となった。そんなくだらない勘違いをした男は再び仁樹へと突っ込む。
「おらぁあああああ!!!」
無茶苦茶に包丁を振り回して襲い掛かる男。しかし、仁樹に避ける気配はない。
先ほど拾った傘の手元と受け骨を束ねて握るように両手で持ち、低く構えた。
馬鹿だ―――!
男は嘲笑った。逃げることなく、刃物相手に真っ向勝負を挑む姿勢。
しかも、先ほど邪魔したときに役立ったとはいえ、武器は耐久性の低い傘だ。
「しねぇえ!!!」
これは勝ち戦だというばかりに、男が大きく振りかざす。
狙うは仁樹の首。深い、赤い線を刻むために力を入れる。
だが、次の瞬間―――。
「死なねェよ――!」
両手に持っていた傘を振りかざした腕の手首に下から押し当てた。
「―――!?」
力を入れるがビクともしない。
何が起きたのか。すぐに傘から腕を離し、瞬時に次の場所を狙う。脇腹だ。
「なッ――!!?」
だが、またしても止められる。傘を垂直に、手首へ押し当てられた。
「っち!!」
ならば、ランダムではどうか。刃物を仁樹の身体のいたるところへ滅茶苦茶に、適当に、好き勝手に狙い、再び振り回し始めた。
何処に当たるか。振り回すことしか意識していない動き。型も何もない素人の動きだ。
しかし、その速さは違う。倉庫やビルで鍛えていたこともあって、刃物を振り回す速さは素人の目では追うことが出来ない。
尋常ではない速さで煌めく刃は宙を切り、音を立てる。
正気を感じられない目で。防がれたことで血が上った頭で。怒涛の勢いで襲い続ける。
一生のトラウマを植えつけるであろう姿で殺しにかかってくる―――。
「オラオラオラオラオラァァァアアアアアアア!!!!」
だが、しかし。
「……うっせェな」
「―――!!?」
仁樹は怯まない。その怒涛の勢いに押し負ける気配を感じさせない。
繰り出され続ける刃の嵐。尋常ではない速さで、次々と己を狙う攻撃を仁樹は容易く防いでいく。
傘の動きは最小限に。無駄な体力を使わないように、と。暴れ回る刃物の軌道を読み、「確実に狙う」という意思のない刃を次々と傘で防ぎ続けていく。
目で追うことのできない刃物に匹敵するは、同じく目に負えない傘の防御。
もはや人間業とは思えない攻防戦。こんな状況ではなかったら、曲芸、パフォーマンスとして観客を沸かせることが出来ただろう。
まるでこの日の為に練習したようなキレのある動きで、仁樹からは焦りの一欠片も感じることはない。
だが、反対に男は焦り、動きがだんだんと鈍くなっていくのが分かる。
「はぁ! はぁ!!」
無理もない。仁樹とは違い、湧き上がる感情のまま、体力を考えることも無く刃物を振り回し続けたのだ。
それに、手首のダメージだ。いくら相手が傘でも、同じ場所に何度もあの速さで押し当てられ続ければ……いや、あの速さ同士で〝衝突〟し合え続ければ、ダメージは蓄積される。
疲れだけではない。感情で無視し続けた痛みをも男の身体を鈍くさせているのだ。
「ちくしょぉおぉぉおおおおおお!!!」
負ける? 冗談じゃない―――!!
運命に選ばれた自分が負けるはずない、と。今度こそ狙いを定めて、仁樹の腹を狙う。
渾身の一撃だ。……が―――。
「―――ッ!」
「はぁッ……!!?」
防がれた。最早、男は舌打ちも、叫び声も上げられない。
そのまま仁樹は防御しながらも、器用に傘で男の腕を下へと力づくに押した。瞬間、男のバランスはわずかに崩れる。
その崩れを見落とさない。見過ごさない。
「残念だったな――ッ!」
わずかにガラ空きとなった男の腹めがけて膝を打ち込む。
「ガハッ―――!!?」
強烈なる痛み。先ほど打ち込まれた『牙砲』とは違い吹っ飛ばされることはなかったが、それでも同じく腹に受けたためダメージは腹に追加される。
我慢できない、感情では忘れられない痛みに男は腹を抑え、足が崩れ、地に蹲る。
だが、手に持った包丁を放す気配はない。それどころか先程よりも強く握り、必死に痛みを耐える。
その間、仁樹は後ろへと距離を取った。警戒は解いていない。いつ男が襲ってくるか、視線を外すことはない。
「ふ、ふふ……、ふふ……」
男の口が開く。
「ふ、ふ、ふ……ふふ、ふざ、ふざけ」
顔は見えない。しかし、笑っているのではない。震えた声で、音を発している。
「ふふふ、ふざ、ふざけんなぁあああああああああああああああ!!」
途端、飛び跳ねるように男は起き上がった。
「なんでだなんでだなんでだぁぁぁあああああ!!!」
その姿に理性は無い。ただ、己の身体に湧き上がる感情を声に変えて喚いているだけ。
「運命よ!! 俺は選ばれた存在だろ!!! クソの人間どもを恐怖のどん底に落とす『鬼』になる存在なんだろ!!!
なのに、なんでだ!!! なんで、俺はこんな目に合ってる!!! 何故、一度でも負けると思わせる!!!
なんで、二度もこいつに合わせるんだ!!! 可笑しいだろう!!! ふざけんなよ!!!」
天へ――、ひたすら天へと男は必死に語りかける。
「俺は、俺は『鬼』だぞ!!! 破壊と殺戮の、絶対的存在の!!!! 最低最悪最強の『鬼』になる男だぞ!!!
ふざけんな、運命!!! そんな偉大な俺をこんな目に合わせんなよ!!! 死ね!! ふざけんな!!!
ぶっ殺すぞ、この野郎がぁぁああああ!!!!」
運命へ、世界へ罵声を浴びさせる―――。
「しかも、人間如きに!!! こんなクソな人間如きに!!!」
狂っている。本当に狂っている―――。
「人間如きに、この俺がぁぁあああああああああああああああああああ!!!!」
狂い人(クレイジーヒューマン)―――。
「お前もだろ」
仁樹の口が動いた。
「アァ……?」
その言葉に、天へと向けていた男の目は仁樹に向く。
ギロリ、と眼球が動き、仁樹を呪うかのように睨みつける。
「人間」
だが、仁樹は臆さない。戸惑うことも、怯むことも無い。
恐れることも無く。同情することも無く。
「お前も人間だろ」
真実を告げる―――。
その瞬間、男の目に怒りの火が灯された。
「ちげぇええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」
男は再び叫ぶ。睨みは仁樹をまるで射抜く鋭さに変わる。
「誰が人間なもんかぁああ!!!!! ふざけんなぁああああああ!!!!」
拒絶の反応。否定の言葉。次々と男の全身、口から飛び出してくる。
「気持ち悪くてうじゃうじゃと沸いてくる奴らとはちげェ!!!」
まるで、子どもだ。仁樹は思った。思い通りに事が進まないことに駄々をこねる子どもだ、と。
ヒーローごっこでヒーローになれなかった。やりたくない怪獣役になって苛立っている。そんな子供。
狂いに狂い、騒ぎまくる男の姿は、仁樹にとってそんな風にしか見えなかった。
「じゃァ、何者なんだよ」
駄々を捏ね続ける男に仁樹は何処となく、呆れたような声で問いかける。
その問いを、男はまるで待ってたかのように荒々しく……いや、子どものようなうるさい声で答えた。
「俺は人間の上に行くものだよ!!!九年前のように恐怖で人間共を支配してやるんだ!!!
集団でしか何も出来ない馬鹿共を上から眺めてな!!!刃物、素手、銃、最後は爆薬なんかでよ!!!
『鬼』となって俺の恐怖を知らしめてやる!!!俺が最強なのだと!!!誰にも俺には逆らえないのだとよ!!!
は、ははは、あははははは!!!!!!」
雨で盛大に濡れた顔を歪ませる。
全身に当たる冷たい水滴。すべてが吹っ飛んだ頭を冷やすことは叶わなかった。
が、しかし。
「そうだ……」
男に新たな考えを、〝違うもの事の見方を与えた〟。
こいつを殺そう───……!
運命は裏切っていない。そう思い込んだ。これは試練。これは訓練なのだ、と。
いや。そんな生ぬるいものではない―――……!
これは『鬼』になる最終試験なのだ。仁樹を殺すことで、自分は大いなる存在に近付ける、と。
きっとこの先、生きる人生の中で仁樹のような男は存在しない。
人間の中で、人間を代表する、人間。人間のラスボス。
ラスボスをクリアしなければ、ゲームにハッピーエンドは訪れない。
「お前を殺させて貰うぜ……!」
痛みなど知るものか。足に力を入れ、立ち上がる。
ゲームの登場人物たちも体力が残りわずかでも敵に立ち向かっていく。
包丁と、自分の持つ武器を片手に。自分たちの信じるハッピーエンドを目指す。
「俺の支配者への第一歩の死人になるんだからよ!!」
ハッピーエンド。主人公が思い描く世界――。
『鬼』が、最低の、最悪の、最強の―――。
『鬼』が支配する世界。
破壊に、殺戮に、非道に、外道に包まれた恐怖の世界に―――。
「光栄に思いやがれ!!!!!!!」
「言いてェことはそれだけか?」
「あぁ?」
「言いてェこと言い終わったのかって聞いてんだよ」
男は、気付かなかったのだろうか。
たった今、仁樹の表情が変わったことに―――。
感情が――――………。
「連続犯罪者さんよォ」
〝消えたことに〟―――……。
「あぁ、纏めると───」
そのことに、興奮して気付かないまま、男は続ける。
包丁を持たぬ手で親指を立て、そのまま、下にして大きく振り落とした。
「くだらねぇ人間共は踏み台なんだ―――よッ!!!」
言い切ると同時に男は地面を蹴った。
凝りもせず、仁樹にまたもや突っ込む形で。その腕を大きく振った。
一刀両断する勢いで―――。
殺す───!
野望と快楽を求めて。
殺す―――!
刃に力を込めて。
殺す───!
第一歩の壁に向かって。
殺す───!
憧れの存在を目指して。
殺す―――!
己を信じて。
ぶっ殺す―――――――!!!!!!!!!!!!!!!!!
その刃を振り落した――――。
「〝なってねェな〟……」
避けた―――。
「……え?」
それは、あまりにも簡単に、あっけなく―――。
避けたから―――。
男の、全てを賭けた一撃を避けたから。
己の、主人公の剣をいともたやすく避けたから。
仁樹がまるで、既に分かっていたように避けたから───。
男は感じた。不思議な感覚を―――。
だが、攻撃の嵐は止めない。かわされたのなら、当たるまで続ければいい。
身体の動く限り、使いに使い、刃物を振り続ける。
「はぁ……?」
しかし、当たらない。まったくと言っていいほど当たらない。かすりもしない。
全て無駄のない動きで。顔を軽く避けるだけで。腕を小さく動かすで。全てを交わし続ける。
「なんで、〝振り回してんだよ〟。〝包丁ってのは刺すことに適してるもんだろ〟」
「へっ?」
間抜けな返事しか出来ない。出来ないんじゃない。それしか生まれない。
「振りまわすにしろ、服を狙ってどうすんだよ。顔、手、首。肌が露出してるところ狙わねェ、と」
攻撃の嵐の中。傘を放り投げ、襲ってくる男の腕を掴む。
それも、ごく自然に。いとも簡単に、分かっていたかのようにすんなりと掴み取った。
流れるように、相手の懐に入り込み胸ぐらを掴む。
「服で滑って切れねェだろう、が―――ッ!」
瞬間、仁樹は両腕、足腰に力を入れる。
「――――ッ!!??」
一本背負い。
素人でもわかる綺麗な一本背負いが決まる。
「がッ―――!!??」
三度目の正直ではなかった。
二度ある事は三度ある。
地面に逆戻り。強く握っていたはずの包丁が転がった。
背に強い衝撃を受け、肺から空気が吐き出て無くなっていくのがわかる。
「ゲホッ!ゲッホゲホッ!! ハァ、ハァ……!!」
今度は立ち上がれなかった。立ち上がるよりも、肺への酸素を求めて呼吸を繰り返す。
気持ち悪い。頭がクラクラする。吐き気がする。
「……」
そんな男に、その長い足で近づく仁樹。
ゆっくりと、男の前にまでたどり着き、膝を曲げしゃがみ込んだ。
「ひっ!!??」
男は、いきなり〝怯え始めた〟。そして咄嗟に、手が仁樹の首へと伸びる。
「あ、あ、ああ!!」
「……」
包丁を拾う思考なんてものは既になかった。
伸ばしたままの手に、いま出せるだけ出せる力を入れ、仁樹の首を占める。
「あう、ああ……!?」
このまま消えてくれ、と願いながら―――。
「〝本当になってねェ〟……」
だが、男の願いは叶わない。
その証拠に、男は見た。
首を占められても、なお〝少しの苦しみも感じない〟―――。
「ひゃっ!!??」
〝何も感じさせない〟――――。
「なんで首占めんのに腕伸ばしてやってんだよ」
〝『無』の仁樹〟を―――――。
次の瞬間。仁樹は自分の首に伸びる腕に、己の腕を垂直に落とす。
「!!??!!!?」
言葉にならない。痛みで声が上がらない。
痛みに怯むその隙に、緩まった手を抜け、男の顔面目掛けて頭突きを一撃与え、仁樹は逃れる。
男には、仁樹の動きを気にしていられるほどの余裕は無い。
身体を折りたたみ、両腕の、いや、両肘と頭の痛みに耐える。同時に男の目から雨なのか涙なのか、どちらかはわからないものが流れ出る。
仁樹が男に行った攻撃。
先程の男のように、正面から腕を伸ばしたまま首を占めると自然的に肘の裏は上を向くことになる。
そして、伸びきったそこに強い衝撃を与えることで腕は"強制的に曲がる〟。
もっと分かりやすく説明をすれば、『膝かっくん』を応用したもの。
それによって緩くなった手を抜けて、頭突きという追加攻撃をしたのだ。
だが、男の痛みの反応をみると『膝かっくん』程度ではないことがわかる。
「いてェだろうが、骨を折ったとかはねェ。力加減ぐれェなら出来る」
「……!!??」
自分の傘を拾い上げて、もう動くことさえままならない男に仁樹はまた近づく。
男は立ち上がれないまま。〝逃げられないまま〟、迫りくる仁樹を見ることしか出来ない。
「意味わかんねぇ……!?」
そこには、この都会を1ヶ月恐怖に染めた男はいなかった。
いたのは、目の前の者に怯え、手足を自由に動かせないまま、見る事しか出来ない情けなく弱い男────。
『人間』の姿―――。
大体、冷静に考えてみればわかることだ。雨の中、威力を落とさず傘を槍投げの如く目標物に当てる者に。
大の男を一発で遠くまで殴り飛ばした者に。無駄のない動きで攻撃を防ぎ切った者に。
刃物があるからって、勝てるわけがないじゃぁねぇか―――――!!!!!
いまさらになって気付く真実。自分が与えてきた『恐怖』で、見えなかった情報が入ってくる。
届かない身長。見える逞しい腕。鍛えられた身体。
どれも、男とは比べものにはならない、恵まれたその姿。
「あ、ぁ……!?」
特に、男に恐怖を植えつけるは、その顔―――。
女性が好む、整った顔立ちが―――。
「……」
その『無』が、『恐怖』でしかない〟―――。
「あ、あ、あああああああああああああああああ!!!!!!」
ままならない身体を無理矢理動かす。足には一度も攻撃されていない。
愚かにも、迫りくる『恐怖』に男は背を向け、そして、突然走り出す。
近づいて欲しくない。戦いたくない。逃げたい。その背が、男のいまある全ての思い、感情を物語る。
身体が痛い。死ぬほど痛い。だが、そんなこと我慢しなければ、逃げられない。
「悪いな」
しかし、 仁樹は逃がさなかった。傘を構え、こちらも走り出す。
どちらの足が速さかは、あの爆発事故で結果が出ている。
必死に逃げ行くその背中を目掛けて、仁樹は傘を振う。
「いッ―――!!?」
そして、横にして叩き付けた。一瞬だが、傘がしなる。
「戦意喪失の相手に攻撃するなんて最低だが、お前はここで捕まえなきゃなんねェ」
倒れこむ男に、一撃を喰らわした傘を肩に掛けながら仁樹は淡々と言った。
その表情を変えぬまま。口だけを動かして―――。
「力も、能力も、デタラメだ……!」
身体を襲う痛みによって、やっと出た声は震えている。
夢であってほしい。こんなのは悪夢だ。ありえない。
受け入れたくないこの痛みと恐怖を、偽りのもだと願いたい。
「ありえねぇ……、ありえねぇよ!!」
「ありえねェなら、こいつの方だな」
その言葉は自分ではないと語りながら、その手に持つ傘に仁樹は目を向ける。
「よく俺の力に〝耐えたもんだぜ〟」
「!!?」
「いまの攻撃で大抵の傘は〝折れて壊れる〟」
傘が、〝曲がるのではない〟。〝折れて壊れる〟、と言った。
本当にどれほどの力で、投げて、握り、叩いていたのか。
肩にかけていた傘を持ち上げ、仁樹は男の身体を狙う。
叩くように持ち上げるのではなく、刺すように持ち上げる。
「〝なァ、知ってるか〟」
漆黒の、何にも感じさせない。その『無』の目で。どうしようもない男を見下ろす。
その目を見ただけでも石にされるのではないか。
……違う。例えが違う。石ではない。
その目に見られただけで。見てしまっただけで。
〝存在そのものを消されてしまうような〟、その目で―――。
「〝傘でも人は殺せるんだぞ〟」
いまの、男の脳内は逃げていった女と同じだ。
「ア……アア……」
『恐怖』で埋め尽くしされた。
必死に違うことを考えようとしても叶わない。
頭から血が引いていく。顔がみるみる内に真っ青になっていくのは雨だけのせいではない。
終わる────……。
その時、一つだけ。たった一つだけ浮かび上がった。
「九年……、前……」
あ、────……。
『九年前』。
「お前、まさか……」
感じるこの恐怖。何も感じない目。戦いに慣れた身体。喰らった技。意味深き言動。
信じられない、信じたくない。しかし、この一戦が―――。
全てが物語った―――。
言おう……。
男の『推測』は『真実』だと───……。
「嘘、だろ……」
‶自分が憧れていた存在〟が────。
傘を持つその腕を―――。
「終了だ―――」
真っ直ぐに落とした────────‥‥‥‥‥。
あぁ、────……
そうだ────‥‥‥‥
そうなのだ────‥‥‥
『九年前』───‥‥‥
本当の、『恐怖』の世界がそこにはあった────‥‥‥
誰もが怯え、苦しみ、嘆いた、時代が───‥‥‥‥
それを作り出した存在────‥‥‥
多くの命を殺め、血で染まりし存在───‥‥‥
そう、財峨仁樹は───‥‥‥
『鬼』なんて比にはならない───‥‥‥‥
人を殺めることに何も思わない────‥‥‥‥
何も感じない―――……
最低で最悪で最凶で最大の───‥‥‥
『人形』〝だった〟────‥‥‥‥
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