神と罪のカルマ2 『辛い』ディナーを召し上がれfirst【04】
〇
時刻は数分で二十三時。
都会は夜になっても眠ることはない。仕事帰り、飲み会、大学の集まり。それぞれ理由を持って、この光り輝く夜の街を歩いていく。
また、昼とは違う夜の住民たちも、そんな彼らを迎え入れるために各々仕事へと取り掛かっていた。
昼の世界と夜の世界の人々が交わる、二十三時近い都会の中。
本日の仕事を終え、仁樹もこの世界の人々と同じように足を動かし、自宅への道を歩んでいた。
……が。その女性が好むであろう顔は、飲み会を楽しむ顔でも、疲れて早く帰りたい顔でもなく。
何処か、絶望を感じさせる顔であった。
「どうすれって言うんだよ……」
切れ長の目が向ける先にあるのは、右手に持っている白いビニール袋。中身はご存知、料理長が作ったカレーパスタが入ったタッパが一つ。
あの後。いくら抗議してもカレーを平等に分けるという提案を受け入れて貰えず、仁樹はあの激辛料理を不平等に、一人大量に持って帰ることになってしまった。
「死んだ………」
勿論、その言葉の意味は仁樹の命ではなく、仁樹の舌のことについてなのだがいささか間違っていない。
一口食べただけでも舌がしびれるほどの強烈な辛(から)さが襲い掛かってきた料理だ。
そんな恐ろしいカレーをこんなタッパいっぱいの量を食べたとして、はたして仁樹の舌は大丈夫なのか。
下手したら話すこともままならなくなるかもしれない。
幸い。明日は貴重な休日。だが、その日は朋音と久々に出掛ける日でもあった。
「甘いものいれるか……。んで、一気に片づけたいけど、一気に片づけないようにしよう」
それがいい。カレーは日持ちが良いのだ。本当は早くこの恐怖を片づけたいのだが、辛さにやられて一日まともに話せなくなってしまったら嫌だ。
――そうすると、朋音が間違って食べないようにしないとな。
料理人として、料理を捨てることは決してあってはならないこと。だが、何故食べ物に恐怖を感じなければいかないのか。
内心、隅でそんなことを思い、重く感じる右腕を揺らしながら愛しい彼女が待つアパートへと歩いていく。
歩いているのだが………。
「蜂蜜、リンゴにチョコレー───と?」
踏んだ。何かを踏んだ。
スニーカーの下に柔らかいが、何処か固い何かを感じた。
「あァ?」
何を踏んだのか。立ち止まり、前を見ていた顔を仁樹は下に向ける。
スニーカーの下にはそれは長く、先が5つの尾に分かれた、まるで生き物のようなものがビルの間から出ているではないか。
……というか、生き物だった。
「……………………腕?」
妙な所で冷静になる。仁樹が踏んだものは間違えなく人の腕であり、そのまま視線を動かして腕が生えている場所を辿っていくと、ビルとビルの間にある存在が目に映った。
「…………あ」
普通にいた。普通に倒れている人がいた。
「…………」
突然動きを止め、無口になる。もちろん、日本の首都程ではないが此処もやはり都会であるわけで。
このように街中で、しかも夜に倒れていてもなんら驚くことでもない。
飲んで置いてかれたのか、喧嘩でやられたかが大体だ。
その為、仁樹がただいま停止して無口でいるのは驚いたからではない。
「…………あー」
悩んでいるのだ。関わるべきかどうか。
腕を踏んだ以上、謝らなければならない。それに、そもそも倒れている人をほっとくのはどうなのか、と。
しかし。だからと言って倒れている者全員が安全というわけではない。
愚痴やらわからない説教やら、はたまた酔った勢いでの暴行など。後者は撃退することは容易くて可能だが、前者はそうとはいかない。
「…………というか、意識あるのか?」
何よりもそこだ。先程から見ている限り、ピクリとも動きを見せない身体。
返事は無い──、と某有名RPGのお決まりの台詞が当てはまるかのように動く気配がない。
もしかしたら酔いつぶれているのか、としゃがんで顔を近付けるが全く酒の臭いはなく、また見える範囲で身体を見てもとくに暴行を受けた形跡は見当たらない。
「仕方ねェな」
踏んでしまい、その上このような姿をしっかりと見てしまった以上、関わる選択を取るしかなくなってしまった。
愚痴やらなんやらになっても、鳩尾一発で気絶させようなどと物騒なことを考えながら倒れている人物へと仁樹は左手を伸ばす。
「おい。生きてるか?」
「…………」
揺らしてみるが返事がない。だが、よく見ると肩が微かながら動いてるのでただの屍ではないようだ。
もう一度、呼びかけながら身体を大きく揺らす。
「おーい」
「…………う……」
二度目の揺さ振りで声が聞こえた。
「大丈夫か?」
次は軽めに叩くようにして、相手の意識を覚醒させようとする。
「ん…………うっ……う」
「こんな所で倒れてなんかあったのか?」
「………!、うっ!?」
「おい!?」
相手の意識が戻った。しかし、安心もつかの間。突然腹を抱え込み、苦しみの声をあげ始めたのだ。
さすがの仁樹でもこの様子に焦り始める。
「腹、痛ェのか!?」
もしかして腹痛で倒れていたのか。そんな考えが頭の中を過ぎりながら即座に携帯を取り出した。
指を動かし、すぐに救急車……ではなく、「博士」と呼ばれる髭面の灯真の父親へと連絡を取ろうとする。
───が、そんな仁樹の行動は、ひとつの手にて阻止された。
「………」
「おいッ!?」
仁樹の腕を掴んだのは、なんと倒れた者の手だった。
震えながらも必死に仁樹の腕を掴む手に、仁樹はまたしても驚きを隠せなかった。
「………ら、…………た」
その時。声が聞えた。
痛みを訴えるような呻き声ではない。しっかりと、言葉を発しているであろう声。
何をそんなに必死に伝えたいのか。弱っているであろう身体では想像できない力で掴んで来る人物に、仁樹は声を聴くために顔を近づけた。
微かな、弱々しい声で聞えたのは―――……
「ハラ…………減った…………」
「………………………………はァ?」
よくある落ち。
「メシ…………」
「…………」
眉間に皺が寄るのが分かる。
「腹減った」と「飯」。つまり、腹を抱え込んで苦しみ倒れていたこの者は、『空腹』という魔物にやられていた、らしい。
そんな状況に呆れてものも言えないとは、まさにこのこと。
あまりにも漫画過ぎる馬鹿な落ちをしてきた者に、仁樹は何も言えなかった。否、言わなかった。
馬鹿じゃねェか、と。
「食い物ぉ…………」
しかし。言えなかった言わなかったにしろ、料理人として目の前で腹を空かせた者を放置することはできない。
食べることは生きること───。
たが、呆れながらもすぐさま何か食べさせてやりたいのだが、その肝心な食べるものがいま手元にない。
……いや、ないわけではないのだが。
「流石になァ……」
この右手に持つ既に凶器と化した食べものを与えるというのも考えものだ。
店長のような辛(から)さに強い者や根っからの辛党ではない限り、差し出してはいけないであろう。
これは、何か買ってきたほうが早い。確か近くにコンビニがあったはずだと目の前の空腹者から仁樹が目を外そうとしたとき、
先ほどまで仁樹の腕を強く掴んでいた手が離れた。
「ん?」
そして、次の瞬間。
「メ……………っシ!!!」
「うわッ!?」
相手の行動は早かった。離れた手は力無く倒れていたとは思えない勢いで、仁樹が持っていた凶器という名のカレーを奪い取ったのだ。
仁樹は全く予想していなかった速さに驚きを隠すことが出来なかった。そして、その場で暫し固まってしまう。
相手はそんな仁樹には目もくれず、落ち着きのない慌ただしい手付きでビニール袋からカレーの入ったタッパを取り出し、その蓋を開けた。
ようやく視界にその赤々とした液体が目に写ったことにより、仁樹は止まっていた身体を動かし、何故か右手にフォークを装備している相手に慌てた声を掛ける。
「お、おい!?」
「いただきまーす!!!」
残念ながら、止める声を聞いて貰えなかった。
ご丁寧に……ではなく、慈悲に入っていたグーテンタークお手製のパスタを大量にフォークで巻き取り、続いてカレーも大量に付け、その大きく開かれた口に入れ込んだ。
それは早食い競争をするかのように、止める隙間などない勢いで口の中へと詰め込み続ける。
「…………」
……が、最後まで続けるわけではなく。その手の動きは急に停止した。
それもそうだろう。
舌の感覚がまるでなくなるような。従業員のほとんどが料理長にメニュー追加を拒否するような。
自分の被害を少なくすべく一人に大量に押し付けるような辛(から)さのを口にしたら誰だって停止する。
それでも目の前の相手は吐かずに、必死に呑み込もうとするのだからいい方だ。だが、フォークを持ったその手にがとうとう震え出した。
間違いなく来る。この辛(から)さへの非難や文句が。
悲鳴に近い声か。怒鳴り声か。大袈裟かもしれないが仁樹はその様子を見ながら耳を塞ぎ、来るであろう声に備え始めた。
「う、」
塞ぐ手に力を入れる。
――来る!
「うめェェェエエエエエエ!!!」
「………………」
予想外。二度目の予想外が仁樹を襲う。
「うまっ!うめっ!何じゃこりゃ!!!最高じゃね!パネェ!!花丸やりてェ!!マジガチ最強じゃねェか!!三つ星かってーの!!!」
なんということだろうか。
グーテンターク従業員全員が否定した料理を目の前の者は数々の言葉を並べて賛美しているではないか。
感動して止めていたであろう手を先程よりも速く動かし、パスタとカレーをその口へと運んでいく。
その間にも器用に食べながら料理の感想を言っていく相手の姿を見て、仁樹はゆっくりと両手を耳から離した。
「…………なんでだ?」
やっと出た言葉が疑問系。あの凶器のカレーを驚きの速さで食べていく相手が信じられないのだ。
――これが、本当の辛党なのか?
だが、料理を嬉しそうに食べる相手のお蔭で、仁樹は自分の舌を守ってもらったことになるので嬉しいことである。
ここで、ようやく顔を上げてカレーパスタを勢いよく食べる相手をよく見ることができた。
気が付かなかったが、顔をよく見ると仁樹とはそんなに変わらないであろう青年であった。もしかしたら、同い年かもしれない。
袖を腰で巻いて、何処にでもあるような作業着をオシャレに着こなし、両腕には長めのリストバンドやらサポーター、ブレスレットが、首にはペンダントが身に着けられている。
一重のつり目。その下には、怪我をしたのであろうかガーゼが一枚頬に貼られている。
何より最も目を引くのは薄い紫に染めた髪に、何やら顔のように見えるツギハギ柄ニット帽だ。
そんな第一印象はチャラい青年は、如何にも都会っ子という雰囲気を全身から醸し出していた。
そのように仁樹は青年の格好を分析していると、青年はとうとう最後の一口を大口を開けて突っ込み、数回噛んで呑み込んだ。
「───!!! 御馳走様でした!!!」
パンっ!、と両手で気持ち良い音を鳴らし、一礼。
「お粗末様でした」
仁樹も続いて一礼をした。
こうして、1日の騒動の元凶であったカレーは青年の腹に見事に収まったのであった。
「ホンッッッツト、ありがとうなァ兄ちゃん!!感謝感激雨霰!!!」
「いや、こっちこそ礼言わせてくれ」
本当にアレを喰ってくれてありがとう、と。
しかし、本当に美味しかったらしいのか。それとも空腹であったためか。
多分、両方であろう。先ほどまで死にそうな声を出していた者とは思えないほどの、満面な笑顔が浮かび上がっていた。
自分が作ったものではないが、師が作った料理を食べて元気になった姿を見ると自分のことのように嬉しいものだ。
「いや~、しかし。あんな超絶うめぇもん、兄ちゃんが作ったのか?」
「俺じゃねェよ。ウチの料理長が試作品で作ったもんだ」
「マジで!?じゃぁ、料理長さんに言っといてくれよ。これブレイク間違え無しだって!」
「そんなわけねェ」
確実にない。
確かに。料理長の腕から生まれた料理は素晴らしい物ばかりだ。そんな彼のことを勿論、仁樹は料理の師として尊敬、敬愛をしている。
だが、しかし。だからと今回の料理は流石に無理だろう。
店長や目の前の男のような人ではない限り、辛(から)過ぎるカレーは人々の舌、はたまた喉を麻痺しかねない。
「従業員全員が食べてメニュー追加への拒否権出したから、ブレイクする所か、客に存在すら知らされねェよ」
「マジガチか!?ちくしょー、勿体ねェ。裏メニューとかにすればいいのに」
「残念。それもねェわ」
「ちぇー」
本気に悔しがりながら、青年は自分が使っていたフォークをまた何処からか出したであろうポケットティッシュと水で綺麗に拭いていく。
失礼だと分かっていながらも、見た目と違って清潔らしいと内心仁樹は思った。
「大体、なんでこんなところで行き倒れてたんだ?」
「んんー。俺ね、つい最近田舎から来たばかりなんだよねー」
「マジかよ」
まさかの田舎者。青年は、全体から醸し出される雰囲気を見事に無視した田舎者だった。
「いや~、初めての都会だからさぁ、もう張り切っちゃって」
「そういうもんか?」
「そういうもんよ!で、あっちにフラフラこっちにフラフラしている内に………」
この刹那ともいえる短い時間の中、青年のことを知り尽くしたわけではないが仁樹にはパターンが読めた。
「有り金全部使い方果たした、と」
「ビンゴ!!!」
「ビンゴじゃねェよ。馬鹿だろ、お前」
とうとう言ってしまった、初対面の人への馬鹿発言。
「初対面の相手に馬鹿ってひでぇなぁ」
「初対面の相手にそんな理由で此処までさせる奴を馬鹿以外になんて言えってんだよ。どんだけ金使うの下手なんだ」
「下手なんじゃない!勝手に金が家出するんだ!」
「それを下手だって言うんだよ」
何故、初対面の相手にここまでのツッコミを入れなければいけないのか。
今日一日で溜まった疲れにまた疲れが追加され、仁樹は頭が痛くなってきた。
「つーか、お前。部屋……というか、寝床はあるんだろうな?」
「あぁ、それは大丈夫」
ここで「無い」と言われたら本気に関わるんじゃなかった、と思いたくもなったであろう。
「でも、外で倒れなきゃ誰も助けてくれないだろ?」
「俺、なんで関わっちまったんだろうな」
思い通り越して言ってしまった。
「それは、あんたがいい奴だからだよ」
そう言って青年は拭き終わったフォークと水を、よく見ると作業着で隠れていた腰に巻いてるバッグにしまい込んだ。
「いい奴程俺みたいな奴に関わって。いい奴程大変なことに巻き込まれて。いい奴程傷ついちまう──」
「……」
髪と髪の間から見える、日本人の特長である黒い目は語っているように見えた。
まるで、〝仕方がない〟と言っているように───……。
「いい奴……」
そう、仁樹が静かに呟く。同時に、頭の中にその言葉の『代表』とも言える存在が思い浮かぶ。
仁樹……。いや、彼だけではない。仁樹の周りの人たち全員が、真っ先に『彼女』のことを思い浮かぶに違いない。
縁 朋音───。
「……」
ふっ、と想像した。朋音の姿を───。
彼女がその腕で。小さい、本当に小さい命を抱き締め、その瞳から沢山の涙を流している姿を───。
想像の中で抱いている命は、自分も彼女も初めて出会う命で―――……、
寿命か、悲劇でその人生の幕を閉じた命で―――……。
彼女は、泣くのだ。
自分の知らない命でも───、
誰にも知られずに幕を閉じた命でも───、
自分の腕で、力で抱き締め―――、
その命のために、精一杯泣くのだ―――……。
『生まれてきてくれてありがとう───』
『生きてくれてありがとう─────』
『いい奴』というより、彼女は『優しい奴』。
『いい奴程』ではなく『優しい奴程』。
『優しい奴程』ではなく『優し過ぎる奴程』。
『優しい過ぎる奴程』ではなく――――、
『愛し過ぎる奴程』――――――――…………。
愛し過ぎるが故に。背負わなくてもいい物までをも背負ってしまう。背負い過ぎてしまう。
その背中に。小さくて、壊れてしまいそうな、小さな背中に――――。
「知ってる……。側にいるから………」
いい子で。優しい心を持って――――、
〝この世界を、愛し過ぎている────〟。
そんな存在を、仁樹は知っている―――――。
できることなら。
己の、『否定の行動』が、
彼女の背負うものを軽くすることを願う―――――……。
「……し、もしも~し兄ちゃ~ん?」
「………あッ」
目の前の青年の呼びかけで仁樹の意識は現実に戻された。
「大丈夫か? 魂がここら辺で阿波踊りしてたぞ」
「見た事ねェが、俺の魂はそんな馬鹿じゃねェと思う」
顔のすぐ隣を人差し指でグルグル円を書く青年の手を払い、仁樹は置き放しのタッパを片付ける。
「あ~あ。もうこんなにうめェ激辛カレーパスタ食えねェのか」
「感想は料理長に伝えておく」
「なぁなぁ。コレみたいな激辛料理置いてる旨い店、ここら辺にねぇの?」
「生憎。旨い店は俺の店以外知らないな」
「うわっ、すっげェ自信!!」
それはそうだろう。今や人気の料理店『グーテンターク』。
その味を知らない人間はこの都会にはいない、と言わしめた有名を誇る料理店だ。
「それにしても、本当に辛(から)い物が好きなんだな」
カレーを隅々までかき集めてパスタに絡めたのであろう。タッパの中身にはカレーの汚れがそんなに見当たらなかった。
「んー、最高に好き。一週間カレーでも飽きないね」
「太るぞ」
「その分動けば何の問題も無い。それに、辛(から)いって『字』も好きなんだ」
「『字』?」
青年の言葉に、思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「おぉ!」
「変な奴だなァ。『カラい』って字が好きだなんて」
「そうか? 最高の字だと思うけど」
「だって、お前。『カラい』は『ツラい』って書くんだぜ」
仁樹は右手の人差し指を立て、宙に漢字を書き始める。
『カラい』と『ツラい』。
『辛(から)い』と『辛(つら)い』。
「俺にはいい字には見えねェな」
「でも、これはどうだ?」
そう言って、青年は腰のバッグからメモ帳とボールペンを取り出し、何やら書き始めた。
「ほら」
「……おぉ」
メモ帳に書かれた文字。
『辛抱強い』『辛抱人』
「これにだって『辛い』って字が使われるぜ」
「『辛抱』、忍耐か」
「いや。忍耐じゃねぇよ。『辛抱』と『我慢』は違う」
「違う?」
言葉を否定された仁樹に、にっ、と青年は笑ながら器用に手に持つボールペンを指と指で回し始めた。
「『辛抱』の先には『光』がある。ただただ、苦しみに耐えるんじゃなくて。その辛さの先には幸せがある、と。希望を捨てずに頑張っていくのが『辛抱』なんだ」
この世界に、『甘さ』だけの人生は無い。人々は必ず、『辛さ』という存在にぶつかる。
そして、『辛さ』をのり切ったとき、何があるのか。
苦しかったという気持ちだけか。悲しかったという気持ちだけか。怖かったという気持ちだけか。
だが、それは過去。過去に経験したものだ。
何があると聞かれ、その身にあるのは『過去』のものだけではないだろう。
では、『未来』には。何もないか。
いや────、
「乗り越えた先には、〝『真っ白な無限』がある〟」
「『真っ白な無限』……」
「それが、『光』なんだよ」
最後に、回していたペンを高く投げて回転させ、握り締め、握り締めるように掴んだ。
『辛抱』の先には『真っ白な無限』が広がっている。
それは、希望――――。無限の可能性のある未来。誰にも決められていない。自分が描くことのできる真っ白な世界。
いくつもの、選択肢がある、永久に白の世界――――……。
「…………」
「って、なんかかっけェ事言ってみたりして!」
「あ、いや……」
「やば! 引いちまった?」
「そんなんじゃねェよ。ただ……」
超えなければならない『辛さ』に、希望を忘れてはいけない『辛さ』───。
──朋音も、同じなのか……?
青年と同じ、『真っ白な無限』を信じているのだろうか。
「すげェなって、な」
「そうか! サンキュー!」
仁樹の感想に青年は素直に笑いながら礼を言うと、ボールペンとメモ帳を仕舞い立ち上がった。
「さて、と。こんな汚いビルとビルの間に長居もしてられねェし、そろそろ行くわ」
続けて、仁樹も立ち上がる。
「だな。もう、行き倒れなんかするなよ」
「わかんねー」
「オイ」
学習能力は無いに等しいのかわからない答えが返ってきた。
「また倒れてたら助けてくれよ」
「気が向いたらな」
「ハハ! あんた本当にいい奴だな!」
仁樹の答えに今日最後の大笑いを青年は見せた。
「では。俺はそんな恩人に何をお礼として渡そうか」
「んなもん、気にすんなよ」
「いいや、気にすんね。つーか、俺、誰かにプレゼントするの好きなんだわ」
会って数十分の他人にプレゼントとは変わっている。だが、そんな青年に外見と違い金銭面を抜いてはしっかりしているのかと仁樹は思った。
人は先入観に捕らわれてはならないとは、まさにこのこと。
「あ~、コレとコレかな」
バッグから取り出され、青年の両手にあるのは、ガーゼと何故バックに入っているのかわからない包帯数個。
「ほい、お礼」
「いや、マジでいいって。つうか、何故に包帯?」
「包帯ってあると意外と便利だぞ。怪我の他にも鞄の紐が切れたときとか」
「あぁ、怪我し易いとかじゃなくてか」
「俺、ドジっ子じゃないし。つーか、怪我し易かったら普通やらなくね?」
冷静に考えれば分かることだった。
「それに。最近物騒だから、こうやってすぐに応急処置できるように一人ひとり意識しないと駄目だと思うんだ」
「それもそうだな」
もう騒ぎも話題も収まってきたとはいえ、先月まで連続犯罪者で騒いでいた街だ。
いつ、その犯罪者と同じように狂って相手に害を与えるものが出てくるかわからない。
青年のいうとおり、怪我を負った者を手当てできるように包帯などを持ち歩いておくのもいいことだ、と仁樹は考え、素直に受け取ることにした。
「ありがとな。貰っとく」
「こっちこそ、ありがとな。あんたのおかげで明日を生きられるよ」
互いにお礼を言った後、短い別れの言葉を言って青年は踵を返し、仁樹に背を向け歩き始めた。
一切顔を振り向かせないで、手だけ軽く振り、離れて距離を作っていく。
流石、都会の夜だろうか。あんなに目立った髪や服装は歩くにつれ徐々に街へと溶け込み、小さくなっていくのに比例してまったく違和感など感じさ亡くなっていった。
誰が、あの青年を田舎者だと思うだろうか。一分もしないうちに、彼はすでに都会に溶け混ってしまった。
「本当に。変な奴なのか、わからなかったな」
そろそろ、帰ろう。明日は休みだが、今日の愛しい彼女はいつもよりも長く起きているはず。
歩くスピード速めて、起きている朋音に「ただいま」と伝えたい。
きっと、自分のことを笑顔で迎えてくれるであろう彼女のことを想いながら、仁樹は街の中を進み続けた。
歩く中、仁樹はふっ、と疑問が浮かんだ。
何故、自分は彼にまた助けてくれ、と言われた時断らなかったのだろうか。
関わった事は少なからず後悔したはずなのに。
しかし、話していたこともあって、もうすぐに日付が変わる。
そんなことを考えるよりも早く帰るかことが仁樹にとっては優先である。
そして、その考えは家に着いた時には仁樹にとってどうでもよくなっているだろう。
神と罪のカルマ2 『辛い』ディナーを召し上がれfirst 終
神と罪のカルマ2 『辛い』ディナーを召し上がれsecond 続
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