神と罪のカルマ2 『辛い』ディナーを召し上がれsecond【03】



 一番、楽しかった思い出はなんだ―――?
 目を瞑り、幼き少年は暗い世界の中で自分自身に問いかけた。
 身体が痛む。悲鳴を上げている。当然だ。昼間、男によって外へと連れ出された後、日が沈み切るまでその小さな身体を動かし続けていたのだから。
 子どもの体力などたかが知れているはずなのに、男は弱音一つ吐かせることも許さないまま、容赦なく罵声を飛ばし、鞭を鋭く振るい続けた。途中、その身に余る辛さに気絶してしまいそうにもなったが、そんなことをしたら、いまよりも酷い仕打ちに合うのは明らかである。何とか踏ん張って意識を保ち、震える身体を懸命に動かしながら男から命令された今日一日の『ノルマ』をこなしていった。
 既に、時刻は夜。男に命令された時間丁度に幼き少年は布団へと潜り込む。朝起き上がってから、寝床に付くまで。全て男に管理される一日。だが、そんな中で唯一、少年にとって自由だと思える時間があった。
 目を瞑り、眠りに落ちるまでの本当に僅かな時間――――。
 その時間だけが、少年にとって大切な時間であった。

 一番だと言える、大切な思い出はあるか―――?
 ――あるよ。……持ってる。
 布団の中で膝を曲げ、小さな身体を更に小さくさせる。周りの音を全てその手で遮断させ、思い出の世界へと自分自身を旅立たせる。

 最初に思い浮かぶのは、日の光だ。
 こことは違う、春を思いだたせるような温かな光が畳の部屋へと降り注ぐ光景。真っ白い紙が貼られた障子が開かれていて、部屋の中から見える庭に生えた松の木がとても大きく見える。その近くには、光を反射している池が一つ。近づかなくてもわかる。池の中では数匹の大きな鯉が悠々と泳いでいることを少年は知っていた。……いや、覚えていた。
 景色が変わる。次に映し出されたのは、隔てる襖が全開にされていることで部屋同士が繋がり、広くなっている畳の世界。床の間には掛け軸や刀、高級そうな壺や生け花が飾られ、部屋の中央に置かれた長い和のテーブルには御煎餅や金平糖など、子どもが喜びそうな和菓子が籠一杯に入って置かれたいた。
 和を重視する、日本屋敷。それが少年の『大切な思い出』として重要な舞台。
 いくつの時の思い出であるかは、少年にはわからない。覚えていながらも、何処か夢のような感覚で脳内にて再生させる。
『―――、此処にいたのかい?』
 思い出の世界にて、『人』が現れた。
 誰だったかは覚えていない。薄ぼんやりと、声を掛けてきた『人』が立っているが、顔も姿も思い出せない。
 だが、『声』だけははっきりと覚えていた。
 優しそうに―――、慈しむように自分を呼ぶ『声』を少年は大切に覚えていたのだ……。
『――! ほぉら、おいで!』
 それが合図だった。覚えている。その合図と同時に自分は走り出した記憶。
 手を広げて、自分の全力を受け止めてくれる存在がとても嬉しくて。自分を抱きしめてくれることが嬉しくて溜まらなかった。

「だいすき……」
 少年の思い出はここで終わってしまうけれど、少年にとっては十分であった。他にはあるのかと聞かれると、思い出されるのは怒号と暴力の日々。楽しかった、大切だと感じる思い出はこれしかない。それ故に、一番の思い出となる少年の過去。
 一つだけでもいいのだ。たった一つでも、自分に素敵な過去があったのだと。辛くて、悲しくて、泣きたくなるような思い出だけではなかったのだと。そう思えるから、少年はその一つだけでいいと思える。
 いつまで続くかわからないこの悪夢を、掛け替えのない『思い出』で乗り越えることが出来る―――。
 閉じていた目から一筋の涙が。毎晩、思い出すたびに無意識に零れ、少年の頬に流れる。
 戻ることが出来ない、『刹那の幸せ』を繰り返し脳内で再生し、深い眠りに意識が誘われるまで―――。
 ――大丈夫、頑張れる……。
 他者からしてみれば『思い出』ではなく、『記憶』と残っているように捉えられる『刹那の幸せ』を胸に。自身を応援しながら一人、静かな夜を過ごしていった――……。

  







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