神と罪のカルマ2 『辛い』ディナーを召し上がれthird【04】



「っ……!!……っ!!」
 少年は耐えている。
 歯を食いしばり、目をきつく閉じ、声が漏れないよう、涙が流れないように必死に耐えている。
 だが、心は泣いている。
 ボロボロに、血を沢山流して、「もう嫌だ!!」と叫びながら大粒の涙を流して泣いている。
「……っ、っ…!!」
 それでも、身体は泣かないように耐えている。泣いてしまってはあの男に何をされるかわからない。罵声も鞭も、男の姿を見ることさえも少年は嫌で仕方ないのだ。
 では、罵声や鞭や男を見る回数を減らすにはどうすればいいか――?
「……っ!!」
 少年は先ほどから一心不乱に『何か』を両手で強く握り締め、上下に振っていた。その行動は下にいく度、より手に力を入れる。まるで、涙とは違うものに耐えているように見えるその手は、窓からの月明かりに照らされていた。
 少年には『ノルマ』が与えられる。時には膨大な量の問題集を解くことを、またある時には血反吐を吐くような運動メニューをこなすことを。もはや幼児虐待では言い切れないほどの『ノルマ』を男は与えてくるのだ。
 逃げ出すことは出来ない。逃げ出したとして、自分はどう生きればいいのか少年はわからない。ずっと、この閉じ込められた世界に生きていた自分は他の生き方など知らないのだ。それに……例え逃げられたとしても、あの男は血の果てまで追いかけてくるであろう。
 男は少年に執着している。しかし、それは人――生き物に対する執着心ではない。

 男が持っているのは、〝『物』に対する執着心〟だった。

 少年は男にとって『物』。故に、『物』には気持ちなど不要。声も涙も心も、『物』には不要なのだ。
 だから、男は『ノルマ』を与える。自分の命令に忠実でどんな難題をもことごとく解いていき、巨人のような強者をも簡単になぎ倒すような兵器……そのような『物』にするべく少年を鍛えていくのだ。
「!!……っ!!」
 故に、少年の今の行動も男に与えられた『ノルマ』を達成するため行っている。
 必死に行う。勉強よりも運動よりも大っ嫌いな―――
 あの男も、自分も嫌いになってしまう、この『ノルマ』を―――

「……っつ!!!」
 ――あぁあああああああああああああああっぁぁあぁぁあああああ!!!!!

 心の中で叫んだ。

 そして月明かりで輝く、〝血に濡れたナイフ〟を振りかざし、一杯に力を入れ、最後のひと振りを真っ直ぐに落とした―――!

「……っ!!!!」
 手に血が飛びつく。肉を切った感触が襲う。生き物を、『命』あるものを殺した真実が少年の身体に染み込んでくる。
 すぐに、それらから逃げるように少年はナイフを隣に置いた。続いて、〝生きていたもの〟に素早く背を向ける。勝手に奪った命に一礼もせず、背を向けた行為は決して侮辱しているのではない。
 後ろには男がいたのだ。
 少年が本日の『ノルマ』をこなすのを待っていた男は、瞑っていた目を静かに開けてこちらに目線を向ける少年の目を見た。少年は身体が震えないよう、必死に堪えた。いま行ったのは『ノルマ』であって、自分がまだやれそう……いや、まだ足らなそうであれば容赦なく、犠牲となる命を持ってきて再び先ほどのような惨劇を繰り返させるであろう。
 少年は平然としなければならない。命を奪ったことに対する〝罪悪感〟を持ってはいけない。逆に命如きどうでもいいとも〝思ってはいけない〟。
 何も考えないようにするのだ。
 男が望むのは、少年が生や死に対する―――〝『無』を覚えることである〟。
「……」
 男は何も話さない。故に、暫し静寂の時が流れる。
 その間、少年は微動だにせず、けれども心では涙を流しながら祈っていた。
 ――もう終わりますように!今日はもう、殺さない様に!!
 祈る神など少年にはいない。この元凶である男にずっと祈り続けた。
 すると、男が口を開いた。
「まぁ、いいだろう……」
 ――……!!
 心が喜んだ。もう、殺さなくていいのだと。今日の辛いことはこれで終わりなのだと。しかし、その喜びは表に出してはいけない。必死にその喜びを表に出さない様に『無』を演じながら少年は自分を見る男の目を見返した。
 だが、男は少年の背後―――先ほど奪っていた『命』を指して、軽く、まるで「簡単だろう?」とでも言いそうな口調で命令したのだ。
「次に、『それ』を見続けろ」
 ――!!!???
 目を大きく見開いてしまった。成長するにつれ、少年は『無』の演技が上手くなった。歯を強くかみ合わせ、表情を動かさない様に耐える。相手から見えない様に気を付けながら足の指や手を強く握り、耐え忍ぶ。……しかし、いまこの男が与えた残酷な命令にはどんな方法を行ってもその動揺は隠せなかった。
 いままで与えられたことのない命令。だが、『目を見開く』という動揺を見せた少年に男は眉間に皺を寄せた。その顔に少年はいち早く反応し、直ぐに後ろへと身体を動かし背を向けた。しかし、遅かった。
「――!!」
 少年の背中に容赦ない蹴りが入る。息がつまるような痛みと衝撃に上半身が前に倒れ、男は追い討ちを掛ける様に足を力強くその背中に落とした。背中にくっきりと靴底の跡が付く程の力で踏みつける。
 少年は悲鳴を上げない様に歯を強く噛みしめ、足の指と手を全力で握って耐える。瞬時に、男の気に触れてしまった自分が悪い。『無』を演じ通せなかった自分が悪い、と頭の中が後悔が埋もれる。決して、少年が悪いわけではないのに。長年積み重なってできてしまった男への『恐怖』は少年の思考回路を麻痺させるには十分であった。
 息がつまる程の力で踏まれること数回。やっと男は満足したのか足を避け、荒々しい呼吸を整えながら腕を組んで傍の壁に寄りかかった。少年の方は痛めつけられた身体を何とか手で支えながら上半身を起こし、顔をゆっくりと上げる。与えられた命令をこなすためだ。忠実にこなさなければ、先程のような痛みを受けることになる。
 ――見たくない!。
 顔を上げるも目は頑なに閉じたままだ。幸い、男の立ち位置からは少年の顔を見ることはできない。しかし、それも時間の問題だ。いつ、少年が見ていないことに気づくか。気付いた時、きっと先程よりも酷い罰が待っているに違いない。
 痛いのはもう嫌だ。ならば見るしか選択肢がない。奪った『命』を見て、『無』を演じ続ければ男はそれで満足する。今日の辛いことは終わる。
 これは賭けだ。自分の精神力が試される賭け。
 覚悟を決めるしかない。少年は歯を食いしばり、顔には出さずに心で怯えたまま意を決してその目を開いた。

 開いた目には、血が映し出される――。

 かつて生きていた『命』の下には赤い血だまり。血は既に乾き始めている。
 顔、腹、足はグチャグチャ。刺していない場所など無い程に。刺した後からは骨も見えている。
 口が中途半端に開いている。舌が無い。目が無い。耳が無い。全部刺している間に千切れてしまった。
 真っ白だった身体はもう何処にも無い。ただの―――、肉の塊と化してしまった。

「――……!!」  その光景に少年は瞬時に息を止める。そうしなければ胃液が逆流して吐いてしまいそうだった。
 改めて見たことで遮断したくて堪らなかった過去の感覚が少年を襲う。
『きゃうん!!!』
 まず耳が記憶を呼び戻す。『あの子』はやめて欲しいと鳴いていたのに。ずっと悲鳴を上げて苦しむ声を聴いていたのに。次に『あの子』の肉を刺す感触が蘇る。刺すと血が手や顔に飛び着いてきた。続いて、『あの子』からの匂い。外の匂いと血と肉の生々しい匂い。死にゆく姿を見ない様に目を瞑っていても、身体が全てを覚えている。

 ――俺は、『あの子』を殺した……。

 心から望んだわけではない。だが、『殺す』ことを少年は選択した。自分の身を守るために『命』を奪った。それは紛れもない『真実』であり、逃れることはできない。
 一生。少年はこの許されることのない『真実』を背負って、その『真実』に心を襲われながら生きていかなければならない。
 少年は、そういう選択をしてしまったのだ。


「ごめんなさい……」

 少年は、ポツリと呟く―――

 己が肉の塊と化した『あの子』に――――

 少年の後ろには、壁からいつの間にか離れていた男が立っていて、

 その背中に向けて、大きく足を持ち上げていた―――――



 この瞬間、
 少年は賭けに負けた――――。








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